二十代なかばの頃、いつまでもネクタイをふらふらさせておくのも大人げないのではと思いネクタイピンをはじめて買った。クリップのような形状をした金具を手にとってみると、ほんとうにこれでネクタイが固定されるのだろうか、動き回っているうちにネクタイとワイシャツとをはさみきれなくなって落ちてしまわないだろうかと不安になり、店員につめよった。心配はいらないと言い、店員はガラスケースから商品を取り出し、キャッシュレジスターの置かれた机へと案内した。


高齢者が住む家の玄関先に飾られた幼児の写真をみれば、それは孫だと考えてしまいがちだが、実は全く血のつながりのない、本名も知らない幼児の写真が飾られていることも多い。それはかつて流行した、孫カードというものだった。
カードの表は幼児の写真であり、裏面には故意にふにゃふにゃさせた絵手紙のような文字でその幼児のプロフィールが記されている。二重まぶたの、瞳の大きな幼児が好まれる傾向があったが、不機嫌な柴犬のような表情をした幼児の写真にも根強い人気があった。


医師の診察を受け終わった高齢者たちが医院を出て数歩先にある調剤薬局へと向かう。処方箋を受付の女性に渡し、興奮を隠せない面持ちで長椅子に座る。薬袋ひとつに一枚ずつついてくるカードが楽しみで仕方ないのだ。カード欲しさに余分な薬の処方箋を書いてくれとせがむ高齢者がしだいに多くなり、社会問題にまで発展した。
孫カードは禁止されたが、禁止されるほど高齢者たちの欲求は高まり、自らが撮影した幼児の写真をパウチ加工して手製のカードを作成し、孫ゲームに興じる者もいた。孫ゲームのルールは文書化されておらず、今となってはその口頭で伝えられたルールブックを知る者はいない。


仕事の関係のちょっとした用事で訪れたその家の玄関の靴箱の上に飾られていた写真には、思わず手をのばしたくなる魅力があった。どんぐりのような形をしたその瞳は、理想な自分の姿をまわりの人たちの中に求めるような甘えを持たない強さがあり、写真から熱が伝わってくることはないが、大量の紙幣に火を放ったような熱をおびたまなざしだった。
居間で家主との話を済ませ、ふたたび玄関までくると我慢できず、すばやくその写真を手にとり、ネクタイピンにはさんで隠した。後ろからついてきた家主のほうを振り返ることなくドアを開けた。引き戸をしめて立ち去ろうとしたそのとき、背後から声が聞こえた。
「そのカードを手にした者には、何かとんでもないことが起こるだろう……」
家主の声を無視して外に出ると、庭に犬が寝ていた。出された餌を食べきる元気もないといった様子で、ひどく年老いてみえた。


それから数年後、食事に出かけた帰りだったか、洋服を買いに出かける途中だったかに橋の上を通りかかったとき、眼下の川に幼児の写真が大量に流れていくのをみかけた。カードの幼児たちは、笑ったり泣いたり、眠っていたりさまざま表情を浮かべて水面を漂っていく。孫カードの流行が終わりを迎えたのだった。
そのとき隣で一緒に川をみつめていた女性とは、もう数年会っていないし、あのとき家主が予言したとんでもないことは今のところ起きていない。