部屋に置かれているのがソファか、座椅子かでその部屋に住む人がお金持ちか貧乏かが決まると考えていたことがあったと思うし、いまでもその考えはかすかに残っている。いま住んでいる部屋にソファはなく、座椅子がふたつあるが、だからといって貧乏だと言いたいわけでもない。ただ、今でも残っているソファと座椅子に対する考えを、いつ、はじめて持ったのかが気になった。しかしそのはじめて考えた瞬間のことは思い出せない。


小学生の頃、何年生の頃だったかは思い出せないが、よく遊びに行っていた空き地があった。そこは古い民家の門のような塀と扉だけが書き割りのようにたっていて、その扉の向こう側にはなにもない、舗装されていない土の地面がむき出しの、何坪だったかは思い出せないしそもそも何坪かを気にしたこともなかった広場で、たまにゲートボール大会が開かれていたが、普段はほとんど誰も来ない場所だった。放課後、当時気に入っていたウェストポーチの中に当時好んで舐めていた抹茶飴をひとつかみ入れてその広場へと出かけた。広場の隅には、塀の陰になり植物が生えている場所があって、その隅にひそかに穴を掘り、どんどん掘り進めて広場の地下に秘密基地を作りたいと考えていた。その秘密基地には、ソファを置きたかったことは覚えているから、このときには既にソファと座椅子に対する考えがあったはずだ。
一緒に穴を掘ってもらっていた仲間のうち、ふたりは歯科医の息子で、後に中学受験をして私立の中高一貫校へと入学した。彼らはともに分譲マンションに住んでいて、ともにソファのある部屋で生活していた。自宅は崩壊寸前の借家で部屋にはこたつと座椅子しかなかったから、ソファはお金持ちで座椅子は貧乏だと考えるようになったのだろう。中学校を卒業するときに、母方の祖父がみかねて自分の家を増築し、よびよせてくれてからやっと安心して生活できるようになった。


その祖父から貰ったもののうちのひとつに、マイクロカセットのテープレコーダーがあった。そのテープレコーダーを手に入れてすぐに、弟とふたりで押し入れの中に入り、レコーダーの録音ボタンを押してから「忍者密会」と低い声でささやき、ささやいたものの次につなげる言葉をなにも考えていなかったからすぐに停止ボタンを押し、巻き戻して「忍者密会」という声を再生して遊んでいたことを思い出す。そのときの押し入れは祖父の家の押し入れだったはずだが、高校生になって「忍者密会」とささやいて遊んでいたとは考えにくいから、増築している途中に帰省して遊んでいたのかもしれない。それでも中学生で「忍者密会」もおかしいのではと思えるので、小学生の頃だったかもしれないとも思え、そうなると場所がほんとうに祖父の家の押し入れだったかどうかもあやしくなってくる。


もちろん、広場の隅に掘っていた穴は秘密基地を作るまでには至らず、膝のあたりまでの深さで終わった。その広場では穴を掘っていただけではなく、ボール遊びをしていたこともあった。野球でもなく、サッカーでもなく、どんなルールの遊びだったかは思い出せない。ボールの大きさも片手で握ることのできるものだったか、両手で抱えるものだったか思い出せない。そのボールが広場の隣の家の庭に入ってしまい、壁をよじのぼって忍びこんだことは覚えている。庭先に飛び降りると、見慣れない機械装置があり、それをみた瞬間(赤外線が出てくる!)と思い身構えた。赤外線というものがどのようなものなのかもよく知らなかったが、とにかくレーダーのようなもので監視されていてすぐに通報されると思い、ボールを拾ったあとで慌てて最寄りの警察署まで自転車で走り、我々子どもがボールを拾いに入っただけですと言いに行った記憶がある。
またあるときは、広場の入口付近で中年男性が胸をおさえてうずくまっていたこともあった。男性がうずくまっていたことについては、絶対に記憶ちがいではない自信があるが、大丈夫ですかと声をかけたあと、救急車を呼んだのか、また最寄りの警察署まで走って行ったのか、それともなにもせずに帰ったのかがまったく思い出せない。だからその男性がどうなったのかもわからなくて、そのことについて考えると不安な気持ちになる。


先日、娘のお食い初めをしたときに、母親が古い絵本を三冊持ってきた。そのうちの一冊、「やさいのおなか」という絵本を取り出して、母親が娘にみせはじめたとき、その野菜の断面図がシルエットになっていて次のページに何の野菜か答えが描かれている絵本に見覚えがあることに気づいて、ぞっとした。母親に言われるまでもなく、それは自分が幼い頃母親から同じように「なんの野菜かな」とみせられていた絵本だった。こんなに記憶があいまいで、思い出せないことばかりで、もう一度繰り返せと言われれば途方に暮れてしまうように感じられる四半世紀をすこしすぎた生涯を、この人ははっきりと覚えていて、まるで昨日と同じことを繰り返すかのように孫に向かって同じ絵本を読み聞かせているのかと思ったとたんに、自分のこれまでの人生、経験が拳ほどの大きさにぎゅっと握りこまれてしまいそうな思いがしてぞっとした。それに、自分では思い出すことができない自分の姿の変遷を、自分以外の人間にすべて把握されていると思うと怖い気持ちがした。また、これからの人生が、絵本を二度開く間のようにあっという間に過ぎ去ってしまうのではないかとおそろしくなったとも言える。だから少しでも、繰り返し思いだそうと努力することで、そうした恐怖から逃れたい。逃げ切ることは不可能でも、できるだけ努力はしたいと思った。