蚊の進化


瞼を閉じているのか、開いているのかわからなくなる程の暗闇の中で、あたりでは物音ひとつせず、生きているのか死んでいるのかもわからないと思いかけたそのとき、聞きなれた耳障りな音が届き、それまでの経験上、(刺されたら痒くなる、だから刺される前に叩き殺さなければ)と考えると同時に、その場所がみなれた寝室であることも思い出される。よりよい睡眠を得るため、外からの灯りが入ってこないよう遮光性の高いカーテンを取り付けたばかりだったと思い返しながら、目はさえてきて部屋の灯りをつけ、耳元から飛び去ったものがどこへ行ったかと探し始める。


キジも鳴かずば打たれまい、というのとは少し異なるが、蚊は痒みさえ残さなければ、吸われる側から危害を加えられる事態は大幅に避けられるだろう。さらに言えば、痒みを残さないだけでなく、血を吸われた側に何かしらのメリットを与えられるようになれば、優遇された状態で、より効率よく血を吸うことも可能だ。
そのような考えのもとに、なかなかひとからは理解されにくい特殊な事情により蚊に対して深い思い入れを持った人物が研究に研究を、交配に交配を重ねた結果、進化した、あたらしい蚊が誕生した。
あたらしい蚊は、これまでと同様に、ほかの生き物の血を吸う。血を吸ったあとが赤く膨らむ点では以前と変わらない。しかしながら、ここからがあたらしい点なのだが、吸われたところを舐めてみると、甘い味がする。南国のフルーツのような甘みに加えて、炭酸水のような感触も舌に残り、一言で言うなら、おいしい。


そのあまりのおいしさを、大手食品メーカーが見逃すはずはなかった。自分の身体を刺されることなく、手軽にその風味を味わえるような商品ができれば、爆発的な売り上げを記録し、新聞社が企画する上半期・下半期ヒット番付にランクインするに違いない――それは意外なアイデアでもなんでもなく、会議の席でひとりがそのアイデアを発表した直後に、わたしも、ぼくもと、似通った企画書がテーブルの上に積み重ねられた。


形状は、アメリカンドックのような形。持ち手となる木の棒を人工人肉で包み込み、人工人肉内に作られた人工血管に人工血液を注入したものが一列になってベルトコンベアで蚊ルームへと運ばれていく。ビニール製のカーテンをくぐったアメリカンドックの列を、蚊ルームで飼育されている養殖のあたらしい蚊たちが一斉に刺しにかかる。すると肌色をしていたアメリカンドックがほんのり赤く色づき、少し膨らむ。蚊ルームを出たアメリカンドックは、作業員たちの手によって包装され、賞味期限のシールを貼付されて出荷される。
楽しみ方は、棒を持ち、味がしなくなるまで人工人肉の部分を吸うというもの。


かつては繊維産業が盛んで、自動織機があちらこちらで景気よく音をたてていたこの街も、いまでは廃業した工場の跡地に分譲住宅街ができるばかりで特にこれといった特徴はなくなってしまっていた。地元では仕事がなく、大人たちは皆都心へと働きに出かけていくベットタウンで、昼間は子どもたちだけが自転車で駆け回っていた。そんな街の中心にアメリカンドック工場が建設されたおかげで、雇用が創出され、都心へと通っていた地元住民たちが徐々に工場で働くようになっていった。それで街に活気が出てきたかというと、不思議なことにそういうわけでもなく、工場へ出かけていったきり戻らない住民がいる、もしかしてあそこで扱っているのは人工人肉ではなく、本物の人肉を・・・・・・とまことしやかにささやかれるようになったが、果たしてそれが作り話なのかどうか、ほんとうのところは誰もわからなかった。


工場での勤務を終え、それぞれ別々の門から出ていった彼と彼女とは、近くのファミリーレストランで再び落ち合い、それぞれアイスコーヒーとミルクティーとを飲み干すと一台の自動車に乗り合わせて出かけた。ふたりが付き合っていることは工場内では秘密にしていた。社内恋愛が発覚すると、同じ職場に居づらくなるのではないかと考えたのだが、単に秘密にしていたほうが楽しいからそうしていたとも言えるかもしれなかった。
向かった先は小高い丘にある公園で、かつてゴミ処理場だったところに積みあがった不燃ゴミに土砂とコンクリートとを混ぜてそのまま山のように固めてしまった場所だった。今では夜景を楽しむ場所として有名で、植えられた木々や花々も美しく、ゴミの山の上に立っているとはとても思えない。
まだ陽が沈む前に工場を出たが、既に空には星がまたたいていた。公園からは街が一望できた。家々に灯ったあかりのもとでは、来週までアニメの続きを待ちきれない子どもたちが思い思いの続きを想像していることだろう、そう思いながら、彼は彼女に口づけをした。こんな風に、こんな夜景のみえる場所で口づけをされるなんて、まるで安っぽいドラマの登場人物にでもなったみたいだし、これまでテレビドラマや小説や、映画で描かれる物語をなぞるようには生きていきたくないと考えていたものの、実際にそのなかに身を置いてみると、これはこれで素敵なものかもしれないと、心地よくなりもした彼女がしばらく目を閉じたあとで、胸元をまさぐろうとする彼の手首を握ってすこし身をそらし、もう一度街を見下ろすと、家々の灯りはほとんど消えていて、その代わりに通りが燃え上がるように明るくなっていた。目をこらすと、それは比喩ではなく実際に燃えていた。子どもたちが、松明のように燃え上がるアメリカンドックを高くかかげながら、通りを練り歩いていた。さらに目が慣れてくると、ただ練り歩いているだけではなく、激しくステップを踏んでいるのがわかった。そのステップはサンバのリズムで地面に叩きつけられていて、それをみた瞬間、なぜか、大人たちはもうこの街にはいないのだと彼女は悟った。そして悲しいわけでも、うれしいわけでもなかったのに涙が流れてきたので、手のひらでぬぐったあと、手の甲がぽつんと赤くはれているのに気づいた彼女は、軽く舐めた舌先がシュワッとするその感覚の余韻にしばらく浸りながら、炎をかかげた子どもたちが遠ざかっていくのをずっと眺めていたのだった。