「ポリチンパン」1


陽は昇りきって南中し、眩しさに目を細めつつハンドルを握り、(これはロシア民謡だったかな)と考えながらテトリスのBGMをくちずさんではいるものの、途中で立ち寄ったコンビニエンスストアで買って車内で食べたサラダ巻きの海苔が歯に挟まったのを舌で取ろうと試みるたびに鼻歌は中断されたが、彼の頭の中では音楽は途切れず、急き立てるように流れ続けていた。
 流れるラジオはエアコンの動作音に負けないボリュームで世界各地の風力を伝え終え、語学講座が始まり、ロシア語ではなくフランス語で、レストランに入店するところから料理を注文するところまでをレクチャーしていた。
(地元の方言で地元民に媚びを売る、ローカルタレントのくだらない話は聴きあきた)
 それまでローカルタレントが、リスナーから送られてくる「日常生活で起きたおもしろい出来事」を読み上げて何かコメントをするラジオ番組を好んで聴いていた彼が、急にそう考えてラジオのチャンネルを変えたことに、何か判然とした理由があった訳ではなく、ましてや信仰上の重大な転向などでは決してないが、ラジオを消さずに語学講座をつけたまま鼻歌まで歌うところから、彼が「音がないと、とても寂しいと考える人物」であることは明らかだった。
(わざとらしい方言のおしゃべりを聞き流しているよりも、何を言っているのかわからない外国語に耳を傾けるほうがましだ)
 「海がみえる特別席をご用意いたしました」
 彼には聞き取れない外国語で話す女性の声に続けて、男性が日本語で翻訳した。
 地中海だろうか、地中海だろうな――前方に転がる亀の死骸をハンドルを切ってよける他は、県道をひたすら北へ向かい直進を続けた。
(また葬儀場が増えている)
 数ヶ月前にラーメン店としてオープンした建物が、葬儀場になっていた。通り過ぎてしばらくしてから、彼はラーメン店が開店した初日に、入り口の透明なガラス製の自動ドアが閉まっているのに気づかずに激突し死亡した六十代の男性の記事が新聞の地方版に載っていたことを思い出し、なるほど、と考えたが、何に納得したのか自分でも分からず、口に出してつぶやいた。
「人が死んだ場所が必ず葬儀場、あるいは墓場になるのなら、いつかすべての土地が墓場になってしまう・・・・・・」
 言葉を発したせいで、鼻先にサラダ巻きの海苔のにおいが届き、車内のにおいも気になった彼が空気を入れ替えようと手動式の回転バーをまわして窓を少し開けると、排気ガス臭い熱気が車内に入り込み、舌先に海苔の味を感じながら舌打ちしつつ、すぐに手を逆回転させて窓を閉めた。
(さっきの葬儀場、今度こちら方面に来るときには営業をかけてみよう)
 飛び込み営業をするには事前準備がいる、飛び込みで大切なのは第一印象で、準備不足により悪い第一印象を与えてしまうと、その印象を覆すために余計な労力が必要になってしまう、などと今日訪問しない理由を考えていると、現場を通り過ぎそうになり、ウィンカーを出すと同時に左折して後続車からクラクションを鳴らされた。
 助手席に投げ出してあったネクタイを締め直しドアを開けると熱風が駐車場を吹き抜けて、締めたばかりのネクタイがたなびいて彼の左肩と左耳との間ではためき、すぐにまただらりと垂れ下がり次の風で今度は右肩に乗って、動かなくなった。ペイズリー柄が、熱にやられて死んでしまった微生物を連想させる。
 広い駐車場のアスファルトは熱せられ、中心にある建物が揺らいでみえた。巨大なコンテナを無造作に積み上げたような外観のその建物は、すべてガルバリウム鋼板で覆われており、白い塗装が施されていた。窓はなく、アルミ製のパイプだけが縦横無尽に這っていた。
 県道から目につきやすいように設置された縦長の電光掲示板は、「互助会会員募集中!」という文字を繰り返し点滅表示させており、今日は葬儀が行われていないことが窺えた。
 彼は後部座席のドアを開け、傷だらけのアタッシュケースをおろすと、勢いよくドアを締めた。薄いドアが叩きつけられ、インド製の車体全体が揺れた。自動車運搬船に積まれてマラッカ海峡を渡ったときも、ここまで揺れたことはなかっただろう。
 ゆっくりと動く自動ドアが開くのを待って中に入ると、ひんやりとしたロビーがあった。灰色のモルタルで塗られた壁と床に囲まれた空間の中心に円形のソファが置かれ、小さく開けられた天窓から細い光がソファまで届いていた。彼はいつもこの場所に来ると、(ピラミッドの内部はこんな感じだろうか)と考えた。ピラミッドについて考えるとき彼が決まって思い出すのは、子どもの頃、夏休み、夕方になって新聞の朝刊を開いたところにちょうど載っていた夏祭りの広告をみたときのことだった。
(この夏休み、まだ一度もお祭りに行っていない――花火だって、みていない、ナイアガラだとか、仕掛け花火だとか――この夏休みもあと数日で終わってしまう。小学校に通う間に来る夏休みはあと三回しかない。たったの三回! 生きている間に何回夏を過ごせるというのか、その貴重な一度の夏祭りに行かなくていいのか。夏祭りだけならまだしも、自分はまだみていないものが多すぎる。死ぬまでに全部みることができるのだろうか、日本国内もまだ行ったことのない県ばかりだし、ましてや海外なんて――この前博物館で古代エジプト展はみることができたものの、本物のピラミッドを、スフィンクスをみずに死んでしまうかもしれないなんて!)何者かに握り拳で心臓を叩かれたように唐突に動悸がし、目の前が暗くなって、どこから入ってきたのかわからない蟻が日に焼けた畳の上、ささくれ立った藺草を横切って開いた新聞紙の上まで這ってきたのにも気づかず、隣で姉が遊んでいたゲームボーイから流れてくるロシア民謡がさらに彼をせき立てた。
 すべてをみるまで死ねないと、肩をいからせながらテーブルにつき、出された夕食を残さず食べ、風呂に入ってパジャマに着替えてしまえば今日はもう外出することはないだろうと思いつつ湯船に浸かり、夏祭りへは行くことなく一日が終わり、夏休みが終わった。それ以降、すべてをみたい、経験したいという気持ちは薄れ――自然と薄れたのか、何かによって奪われたのか、彼にはわからないが――彼はこうしてピラミッドの内部を思わせる葬儀場のロビーに来ても、かつて子どもだった頃の焦った気持ちを思い出すだけで、何かを渇望することはなくなっていた。
 ソファには座らず、傍らにアタッシュケースを置いて立ったまま天窓を仰ぎみていると、三つ並んだホールの入り口の内、Aホールの扉が開き、若い男性が顔を出して彼に声をかけると、すぐに顔を引っ込めた。彼はアタッシュケースを肩に掛け直すと、中へと入った。
 ロビー同様に灰色のモルタル塗装を施された長方形の空間は定期清掃の日だったのか、椅子がすべて撤去されており、正面の壁に掛けられた巨大なディスプレイにはなにも映し出されてはおらず、照明を反射して黒々と光っている。ディスプレイの下に位置するアイランドキッチンのようなスペースから五、六歩、扉側からは十二歩の所に並んだ三台の機械の傍らに、先ほど首から上だけをのぞかせていた若い男性が白いワイシャツに黒い蝶ネクタイをつけ、黒いスラックスを履いて立っていた。スラックスの股間の中心から向かってやや右よりが不自然な形に膨らんでいるのが気になったが、彼は何も言わなかった。
 真ん中の機械のランプが切れ欠けているのか、表示がおかしくなっているようなので必要なら交換を、と依頼され、彼はまず真ん中の機械にコインを入れ、動作を確認し、基本の型である「グー」、指を二本加えた「チョキ」、五本加えた「パー」と三つのボタンを順番に押していくと、「チョキ」と「パー」の人差し指にあたる部分のライトが確かに切れていた。
 アタッシュケースを床に寝かせると、カチ、カチと音をたて留め具をはずして開いた。ケースの裏表が分かりやすいよう、表面にはステッカーが貼られていた。それはラジオ番組に「日常生活で起きたおもしろい出来事」をメールで投稿し、読み上げられたときにだけもらえるステッカーだったが、日に焼けたり擦れたりして表面が白くなり、よほどそのラジオ番組を好んで聴いている人物でない限り判別できなくなっていた。
 ドライバー、ニッパー、メジャー、カッター、配線の束などがそれぞれの輪郭の形をしたスポンジ製のくぼみに収まっている中から、あたらしいLEDランプを取り出すと、機械を覆う透明な樹脂製のカバーを固定するネジを三カ所順番にドライバーで取りはずし、ランプを交換すると古いランプをビニール袋にくるんで元のくぼみにしまった。次に腰のベルトにつけたチェーンをたぐり、ポケットから鍵を取り出すと、コイン収納箱を開け、たまったコインを取り出して機械の前に並ぶコイン置き台のトレーに積み上げた。念のため残り二台の動作確認も行い、二台のコインも取り出し終わると、アタッシュケースの上で伝票を書き、後ろに立って作業をみていた男性に手渡すと、男性はスラックスのポケットからシヤチハタ印を取り出して押し、複写された伝票を一枚彼に返してきた。堅そうな膨らみはシヤチハタ印だったのかと彼は納得し、しかしそれにしても大きな印鑑だと考えた。印鑑の持ち手の部分は透明になっていて、押印する際に印鑑をかたむけると透明な持ち手の中をタツノオトシゴが上下に動く細工がほどこされていた。どこで売っているのか尋ねたくなったが、それほど親しい間柄でもなく、親しくなる必要もないかと思い、そのままホールを出た。
(あの印鑑、どこに行けば売っているのだろう)
 営業所へと戻る途中、コンビニエンスストアの駐車場でトマトジュースを飲みながら彼は思いだしていた。(かっこいい印鑑だった――あの印鑑をデスクの上に置いておいたら目を惹くだろうな)倒した座席に半ば寝ころびながら夕陽をみた。車内で休憩するためにわざと離れた位置に駐車していたせいで、飲み干した紙パックをゴミ箱まで捨てにいくのが面倒になり、次にコンビニエンスストアに寄るときまで隠しておこうとグローブボックスを開けると、車検証のファイルの上に布の固まりが載っていた。み覚えはなかった。取り出して広げてみると、男性物のボクサーパンツと、女性物のティーバックの下着だった。


「これはなんだ」
 まだ先客が食べ終えた食器が片付けられたばかりの、指で触れたなら粘りけのある油で汚れがつきそうな丸いテーブルの上を布巾で拭ってもらう前に椅子を引いて腰掛け、二枚の下着を投げ出すと、水の入ったグラスを二つ運んできた女性は居合わせてはいけない場所に居合わせてしまったとでも言いたげな表情で黙って厨房へと戻っていった。テーブルの真っ赤な天板の上に落ちた下着は、肌に身につけるために縫いあげられた本来の用途を離れ、どうぞ生地の感触を確かめてくださいと展示されてでもいるかのような風情になったと彼にも思えなくもなかったが、投げ出された方のKはまさにそんな展示を前にしたように下着を取り上げて裏表、表裏とひっくり返して眺めた。
「これは、ぼくの下着ですね。なぜ先輩が? 」
数日前、一日車を交換してほしいと言ってきたK以外に、同じ車を使った者はいないはずだった。車検で来た代車が珍しくマニュアル車だったため、オートマティック車限定免許のKは運転できなかった。仕方なくマニュアル車に乗った彼も、免許を取得してから一度もクラッチペダルを踏むことがなかったため、困惑した。自動車の運転が好きな人物が、マニュアル車は今ギアがどこに入っているかを自分で正確に把握できるところがいい、オートマティック車だとギアがどこに入っているかわからないときがあって気持ちが悪いと語っているのを聞いたことがあったが、(まずはローだ、次はセカンド、サードからトップ、そして今、オーバードライブだ)と考えながら運転することのどこがいいのか理解できないと強く思ったことがあったことを、彼は思い出した。半クラッチとは一体、なんだったのだろうか。そう思いながら代車を発進させた日のことが強く印象に残っていたため、Kが車を使っていたことを覚えていた。
 自分でグローブボックスに下着を入れた記憶がない以上、Kが入れたとしか考えられなかった。彼が急にこのあと食事に行くぞと誘ったときも、下着を目の前に出したときも、Kは驚いた様子はみせなかった。食事の誘いについては、隔週の週末には誘うことが多かったため驚くほどのことではなく、黙って行きつけの中華料理店についてきたのかもしれないが、下着の件についてはなぜそこまで平然としていられるのか、彼にはわからなかった。黙っていると、Kが口を開いた。
「一昨日、あたらしい機械のパンフレットを持って新規営業をかけてみたのです、飛び込みで」
Kは話しながら、二枚の下着を自分の鞄にしまいこみ、同時に店員に目配せをした。店員は布巾と注文票とを持って来て、さっきまで下着が載っていた天版を素早く吹き上げると、ボールペンを構えて注文を待った。ノンアルコールビール台湾ラーメン、青菜炒めと唐揚げと炒飯とを注文し、店員が厨房に戻ると話を続けた。
「ひとつめの葬儀場では、一応話だけは聞いてもらえて、パンフレットと名刺も渡すことができたので、今日はいい調子だなって、もう一軒行こうって思って、バイパス沿いに走って、次にみえてきた葬儀場で車をとめたのです。ちょうどぼくらが狙いやすそうな、チェーン店ではなさそうな、小さめの葬儀場だったので、今度は直接責任者と会って見積もりの話まで行けるかなって、思ったのですけど、結果は門前払いで、もちろん向こうが悪い訳じゃあないのですけど、頭にきちゃって、それで、脱いでしまったのです」
(何の話をしているのか理解できないのは、年齢差による感覚の違いなのか、世代の問題ではなくK個人の性格の問題なのか、Kの生い立ちが大きく関わっているのか。例えばKが戸籍を持たないことが関係していることも、あるのだろうか)
 戸籍がなくて困ったことといえば、パスポートが取得できなくて海外に行けないことくらいですかね、とKは以前この同じ中華料理店で彼に語ったことがあった。
 戸籍がなければ住民票も発行されず、それに伴って生じる不都合もいろいろとあったはずだが、Kはパスポート以外のことには一切触れなかった。不便さを感じたことがなかったのか、パスポートがなく海外へと渡航できなかったことがKにとってはとても悲しく、大きな損失だったためそのほかのことはどうでもいいと考えているのか、あえて語らなかっただけなのか、それとも、戸籍ネットワークの目が届かない自由さを手に入れるためには、どんな面倒も苦にならないというのだろうか。海外へと旅立つことよりも、戸籍から監視されない自由――戸籍も住民票もなく、国籍も不明なKは、いまここで生きていることを公的に証明する手段を持たない。
 一部の皇族をのぞくすべての臣民は戸籍ネットワークに登録される。改正戸籍ネットワーク法にそう定められているにもかかわらず、Kのような出生届の不備――そこには故意による不備も多く含まれる――によりこの戸籍ネットワークに登録されていない臣民が年々増加している。登録を拒否することにより、臣民としての権利を放棄する者が増えていることに対し、当ネットワークは遺憾の意を表明するだけでなく、FBIから直輸入されたこのシステムをより完璧な、この国のこの地形に暮らす男性、女性、幼児、少年、青年、壮年あらゆる人々の外見的特徴だけでなく「内面」をも記録しつくせるものにするためには手段は選ばない。
 「脱いだといっても、門前払いされたその場でズボンをおろして脱いだわけじゃあありませんよ。そこはぐっとこらえて、人の目がなさそうなところ――ほら、バイパス沿いの、高速のインターの手前に畑が広がっているところがありますよね、側道に入って、そのあたりの広めの道に停まって、すこし離れたところには麦わら帽子を被ってトラクターに乗ったおじいさんがいましたけど、こちらに来そうな気配はありませんでしたし、あたりを見回しても他に歩いている人や車はいなかったので、いそいでベルトをはずしてズボンをおろして、下着のゴムに手をかけたところで、視界の片隅に入っていたバックミラーが暗くなって、あぜ道を転がってくる大きなタイヤの音が聞こえてきて、トラックだ、だめだ、車高が高い、あの角度からはこの下半身を露出しかけているところを全てみられてしまう! 焦って急いでズボンをあげることもできずに固まってしまったのです。ぎゅっと目も閉じてしまって。でもおそるおそる目をあけてみると、間一髪のところでトラックはぼくの停まっている少し後ろで停車して、運転手は昼寝しようとしていたのです。運転席の前の、ガラスの間に挟まっていた漫画雑誌――表紙が誰のグラビアだったか忘れましたけど――それを引っ張りあげて、適当なページを開いて顔の上にのせて。みつからずに済んだ、よかったと思って、いそいでパンツを脱いで、もう一度ズボンを履きました。今思えば、別にトラックの運転手にみつかったところでどうってこともなかったのに、妙な話ですよね」
 Kが話している間に、青菜炒めとノンアルコールビールの瓶とグラスが二つテーブルに運ばれ、青菜と青菜との間に見え隠れするニンニクの破片を箸でつまんでいるとすぐにカエルの唐揚げも届けられた。指先で熱さを確かめつつそのままつかみ、かじった小骨を小皿に出しながら、左手はおしぼりを経由してグラスにのびた。
 例えばグラスに口をつけてからテーブルに置き、再びグラスを傾けてノンアルコールビールを飲んでからまたテーブルに置き、と五度繰り返した結果、偶然テーブルの上に水滴の輪でオリンピックのマークと同じ形が現れたことも当ネットワークは記録しているというのに、Kの語った行為の意図は、判然としなかった。
「でも、それだけでは何と言えばいいのか、熱が冷めきらないような感じがして、結局ズボンのジッパーから出して、そのまま営業所まで運転して帰りました。ああ、すこし喋りすぎました、すみません」
 台湾ラーメンと炒飯もテーブルに並び、鷹の爪と挽き肉とが絡みついた麺をすすると、むせ、むせながらも彼が女性物の方はどうしたのだ? いったい誰のものなのだ? とたずねると、それはエッチな雑誌におまけで付いていたものです、とむせもせず答えた。


 いつもアメリカンを頼むところを、何故だろう、興奮していたのだろうか、普通の辛さの台湾ラーメンを注文してしまったために、翌朝ではなく帰宅してすぐにトイレに籠もることになった。唐辛子とニンニクとが胃と腸を刺激するのを感じるときは、幼い頃繰り返し読んだ「人体のしくみ」という本のイラストを彼はいつも思い出した。内蔵が全部丸みえになったにこやかな男児の口から入ったおにぎりが、食道を通り胃も通過して迷路のような小腸と大腸とを抜けて、きれいな形をした便になる。便にもにこやかな顔がある。しかし今まさに体内から外へ出ようとする便がにこやかな表情をしているとは、とても思えなかった。
 ここで彼の自宅を紹介しよう。最寄り駅からは徒歩十五分、普段車で通勤しているため、駅まで歩くことはほぼないが、売り出し時のチラシにはそう記載されていた。築十八年、鉄骨鉄筋コンクリート造十階建ての九階、ワンフロア二邸の東南側で、日当たりは良好。不動産登記簿謄本の乙区に記載されていたローン保証会社の抵当権設定金額は三千万円であり、全額ローンで購入したと仮定して当初三千万円程度で販売されていたものと思われるが、彼は中古で千五百万円で購入し、甲区の所有権移転と同時に乙区の抵当権は抹消され、あらたに千五百万円の抵当権が記載された。
 売り主はローンの返済を数ヶ月延滞し、競売の一歩手前で任意売却にとどまったとの事情を彼は不動産業者から聞いた。お金が返せなくなった人がかつて暮らしていた家に住むのを嫌がる人もいるだろう、他人事のように彼は考えた。中古マンションの大半は、程度の差こそあれ、お金の事情で売りに出すことになった物件だろうと思えたし、かつてお金を返せなくなった人が暮らした場所に寝起きすることで、自分もいつお金が返せなくなるかわからないのだから気をつけろという教訓になるとも思えたからだった。
 臥薪嘗胆、というと少し意味が違うなと思いつつ布団に入ると、背中の下に敷き布団の下の床の堅さが、おお背骨が堅く平らな面に当たってまっすぐにのばされるようだ、などと感じられ、そして同じ形に作られたコンクリートの入れ物が八つ積み重なり同じように横たわった人が八人積み上がっている様子までもが建物の断面を透視したかのように眼前に浮かんでくるようにも感じられ、八人がジェンガのように揺らぐ錯覚にめまいがし、じっとおさまるのを待っていることが多々あった。
 眠りに落ちる前、薪ではなく抵当権の上で眠っているのだと考えはじめると、固定資産税のことも思い出され、安心して眠る場所を得るためにはお金が必要だ、ローンが払えるだけの給料を与えられているのはありがたいことだ、臥薪嘗胆、臥薪嘗胆、と唱えながら、徒歩十五分の最寄り駅から次の駅へと貨物列車が遠ざかっていく音を聴く夜は一夜や二夜ではなかった。
 ジェンガの八人と彼とは、同じ床に寝ているようでいて、異なっている。入居前にリフォーム工事を行ったため、彼は元のフローリングの上にもう一枚貼られた床板の上に布団を敷いて寝ていた。工事はまずキッチン、トイレ、バスの取り外しから始まり、狭い空間を無理に4LDKに区切っていた壁が壊された。解体、搬出が終わると新しい浴槽が運び込まれ、配管工事と平行して新しい床板が敷かれた。すべての床の上にあたらしい床板が載せられ、厚みを増した分すべての扉の下部が切断された。かつて二つの部屋だった間取りを一部屋に変更したため、間にあった壁とともに、一つの扉は廃棄された。
 完成したあたらしい間取りは、玄関を開けて正面にある扉が子ども部屋、続いてL字型の廊下に入り右手に彼がいま籠もっているトイレと洗面所、左手に夫婦の寝室があり、廊下を抜けると二部屋の壁を取り除いてできたリビングがある。かつて子ども部屋だった場所はゴミ置き場となり、缶ビールの空き缶やペットボトル、可燃ゴミ不燃ゴミ、指定日に出し忘れ、次の週も出し忘れ、どの種類のゴミがどこにあるかも忘れ、黄色や緑色の半透明の袋が積みあがっている。換気することもなく、忘れられた生ゴミが悪臭を放っているため扉を開けることがためらわれ、呼吸をとめた家主によって袋を放り込まれるだけの部屋になっていった。
 かつて夫婦の寝室だった部屋はカーテンを締め切ったまま、カーテンレールに一週間分のカッターシャツがクリーニング店のビニールを被ったままつり下げられている。ダブルベッドは粗大ゴミに出され、床板の上にマットレスが直に置かれている。かつて額に入れて壁にかけられていた、ネットショップで購入したパブロ・ピカソの「女性」という尻だけが線で描かれたスケッチのポスターも、はずされて床に立てかけられている。
 既に変更されてしまった間取りの中に立ち、リフォーム前の間取りを正確に思い描くことはむつかしいのと同様に、毎日(ここは子ども部屋だったのに)と思いながらゴミ袋を放り込むことはなく、ただリビングに空き缶が増えてきたら袋にまとめて移動させている意識しかなくなっていた。どんな気持ちでピカソの尻の絵を飾ったのかも、日々思い出すことはなかった。思いだそうとすれば思い出せたかもしれないが、思いだそうとはしなかった。長い間ウォシュレットをあてても肛門の熱はさめず、あきらめてトイレを出ると彼はそのままバルコニーへ出た。
 数日前に台風が通り過ぎてからひんやりとしてきた夜風にたなびいたネクタイのペイズリー柄が暗がりで息を吹き返した微生物のようにみえるのを捕まえて、ワイシャツの襟を立ててネクタイをほどいた。このマンションで暮らすのもあと数日か、と彼は考えた。ひとりで暮らすには広すぎた。息子の好きだった、甘い味がするジュースのような調整豆乳が飲みたくなった。しかし冷蔵庫には缶ビールしか入ってはいないこともわかっていた。み下ろした線路を列車が通過した。光る車窓の中に運ばれていく人たちが小さくみえた。その晩からかやをつるのをやめた。どうしてか蚊がいなくなった。