「ポリチンパン」2


 わたしだけがいつも蚊に刺されていた。日本から取りよせたものらしき渦巻き型の蚊取り線香に火をつけながら、思い出した。そういえば、最近は蚊にさされても痒みを感じなくなった気がする。皮膚が赤くなるだけで、さされたことに気づかないこともあった。体質が変わったのか、蚊がひとの肌に痒みを残さずに血を吸えるよう進化したのか。進化したのだとしたら、世界中の蚊がそうなったのか、それとも日本の蚊だけが特殊なのか、そんなことはわからない。
 ここは南アフリカ。男がそう言っていた。いや、そうとは聞き取れなかったけれど、手渡された書類の束の中にサウスアフリカという単語がみえたから、きっとそうだと思う。窓際に据えつけられた木製の机はコの字形をしているだけで引き出しがないので、書類の束は机の上の左端に置いてある。机の上には一冊のノートと鉛筆と消しゴム、ハンドルを回すタイプの鉛筆削りが置かれていた。祖父の家に同じタイプの鉛筆削りがあったのを思い出す。初めてみたときは何に使う道具かわからなかった。
 他には木製のベッド、その上にマットレス、シーツ、布団が用意してあった。壁際には木製の衣装ケース、その中にはハンガーが3本、ハンガーをかけるポールの上にある小さな棚にはタオルが3枚と蚊取り線香、マッチの小箱がのっていた。部屋に入ってすぐに開けるとハンガーが揺れた。特にかけておく上着を身につけていなかったから、タオルを手にとり毛羽だってはいない表面を触って新品かどうか見定めようとしたけれどわからず、蚊取り線香とマッチを手に取ってから扉を閉めた。扉の木目が本当の木目なのか、木目調のプラスティックなのか、それも見定めることはできなかった。壁に絵画でもかけられていればタオルや木目をみつめることに時間を費やすこともなかったかもしれないけれど、壁にはなにもかかっていなかった。小さな穴が三つ、そこだけ壁の色が逆三角形に明るくなっているところがあって、それはかつて鹿の頭か何の頭かわからないけれど、そんな飾りの跡かもしれなかった。
 部屋のなかに蚊の存在を感じた訳ではないけれど、キャンドルを灯すような気分で、いや、ただマッチを擦ってみたくて、蚊取り線香に火をつけた。机の前の大きな窓は閉じられていて風はなく、一筋の煙がまっすぐにのぼった。


 窓からは海がみえる。


 あなたにも神が宿る。


 ノートを開き、鉛筆で文字を書くと鋭く尖った先がすこし砕けて、紙の上に黒鉛の粉が散ったところへふっと、息を吹きかけた。あなたにも神が宿る、それがエナジードリンク・ユービックのキャッチコピーだった。日本での最後の数ヶ月間わたしはユービックの試飲キャンペーンガールのアルバイトをしていた。三十歳を過ぎてビキニみたいな格好で街頭に立つことになるとは、そもそも水着を着て海やプールへ行ったこともなかった二十歳そこそこの自分は想像もしていなかったけれど、マンションを出て2LDKのアパートを借りる費用だとか、今後の生活費だとかを考えると、求人誌の高額時給ランキングコーナーの上位にあったその仕事に飛びつかざるをえなかった。
 支給されたビキニみたいなユニフォームは磨かれた金属のように光沢があって、もしほんとうに金属だったなら重たくて付けていられないはずだけれど、手にとると普通の水着の重さだった。持つ手の角度を変えると蛍光灯の光を反射する、そのビキニを着て姿見の前に立ってみてもさほど不格好ではなかったのは、学生時代にテニス部で鍛え上げたせいかもしれないし、結婚してからも続けていたランニングの成果かもしれなかった。
 カーテンの生地が朝日を透してオレンジ色に染まるよりずっと早く、隣で掛け布団をぐちゃぐちゃにして眠る夫を起こさないように――といっても多少の物音で目覚めるほど敏感でもないのだけれど――それは気遣いからでは決してなく、ひとりで過ごす貴重な朝の時間をこの夫、というより布団に絡みついて横たわる、腹のあたりが呼吸にあわせて膨らんだりしぼんだりを繰り返す、肉のかたまりを粘土のように集めて作ったかのような生き物が目覚めて声をかけられたり、何かを頼まれたりして邪魔をされるのが絶対に嫌なだけなのだけれど、静かに寝室を抜け出して、洗面所でなるべく音をたてずに顔を洗い、台所で水を一杯飲んでからウェアに着替え、家を出る。エレベーターでもエントランスでも誰ともすれ違わない。同じ時間にランニングをしている人はいないらしい。新聞配達の人ともすれ違ったことはなかった。 信号のない裏通りを南へまっすぐ、駅まで向かい、駅にぶつかると東に折れて市役所まで走る。
 住んでいたマンションも、その周囲の分譲住宅も、繊維工場の跡地に建てられたものらしく、駅まで走っていく途中に閉鎖されたままの小さな紡織工場を何件か通り過ぎる。取り壊されて土がむき出しになっている土地もあって、毎日ランニングしていると、住宅と住宅との間に挟まれていた工場にネットがかけられたかと思うと翌日には取り壊され、住宅と住宅との側面が露わになって風景が変わる。そうした空き地は、日に日にと言うと言い過ぎのような気もするけれど、増えていくように思えた。
 かつては繊維産業が盛んで、紡織機がガチャンと鳴る度に一万円儲かるというガチャマン景気に沸いていたという話を、商店街の中の閉店した店舗を「憩いのスペース」としてベンチがあるだけの休憩所に改装したところに掲示されていた「この街のあゆみ」という文章で読んだことがあった。ガチャンという音がする間というと、一秒くらいだろうか、ガチャン、一秒で一万円、ガチャン、二秒で二万円という計算でいくと一分間で六十万円、当時の六十万円は今よりももっと価値があっただろうし、ガチャマン景気だなんて少し下品な感じがする景気に沸いていたわけだと考えながら、陽に焼けたプラスティックのベンチに腰掛けて近くの和菓子屋さんで買ったみたらしだんごを食べたことがあった。次のテナントが入居するまでの、空っぽの空間には寒々しく光る蛍光灯が並ぶ天井と「この街のあゆみ」のプレートがかけられた壁とに囲まれているだけで、手洗い場なんてなかったから汚れた口を持っていたハンカチで拭って、おだんごの串を捨てるゴミ箱もなかったからさっきの和菓子屋さんに捨てにいこうと立ち上がった。
 みたらしで汚れたそのハンカチも、そのときわたしが着ていた服も、走っているわたしのウェアも、この街で作られた生地のものは一枚もなかったはずで、どこの国で織られてどこの国で縫いあげられたものか確かめることさえしなくなっていた。だから日に日に、と言うと言い過ぎのような気もするけれど、ランニングコース沿いの空き地は増えていき、毎日それを同じ位置からカメラで撮影したものをつなぎ合わせたなら、次々に建物が消滅していく中を、まるで消えていく街から逃げ出すようにわたしが駆け抜けていく映像作品ができたかもしれない。
 小さな工場が消滅していく一方で、敷地の広い工場は、建物をそのままの姿で残したまま巨大な介護施設に変わり、かつて工業団地と呼ばれた一角が介護団地になることも少なくなかった。わたしの祖父が入っていた介護施設は元繊維工場ではなく元自動車部品製造工場だった。
 祖父が入所する前に弟とふたりで見学にいくと、スキー場の二人乗りゴンドラのような宙づりの椅子に腰かけた老人たちがベルトコンベアで運ばれてきて、ゴーグルとマスクをした作業員たちがバスローブのような衣服を脱がせる係、身体をスポンジで洗う係、泡をシャワーで洗い流す係、紙おむつを付ける係、ふたたびバスローブを着せる係、流動食を口へ運ぶ係、口を拭う係と、順番に待ちかまえていて、流れ作業でそれぞれの担当係の作業を繰り返す光景があった。作業員のゴーグルは金属のように光を反射して、彼らの視線がどこにあるのかまったくわからなかった。
 一連のケア作業を受けた老人たちは、それぞれのパーソナルスペースと呼ばれるカプセルホテルのような空間に運ばれていき、横たわってスクリーンに映る映像をみながら次にベルトコンベアで運ばれる時間までを過ごす。
「映像は、小津安二郎監督作品を公開年順に上映しております。『懺悔の刃』からはじまり、『秋刀魚の味』まで順に放映し、また最初に戻ります」
 主任という肩書きだけが記された名刺を渡してきた案内係の男性はそのように説明した。説明しながら胸元のループタイをいじっていた。弟は説明を聞いているそぶりをみせず、次々に運ばれてくる老人たちを黙って見下ろしていた。ループタイをいじるばかりで言葉を続けないので、強い関心があった訳ではないけれど質問することにした。
小津安二郎だけですか?他の映画は・・・・・・映画の他にはすることはないのでしょうか?」
小津安二郎だけです。ここは極力経費を抑えて多くの方にご利用いただけるようにと考えて作られた施設ですので、いまご覧頂いているように流れ作業による介護など、なんといいますか、あまり文化的でないと受け止められることもございます。そこで小津安二郎の映画によって文化的な面を補おうという意図で行っているサービスでございます。小津安二郎というと、蓮實重彦が評価している映画、というイメージがございましたので、蓮實重彦が評価するものは文化的価値が非常に高いものである、との判断から採用させていただいております」
「それは何の模様が彫ってあるのですか?ピラミッドですか?」
 弟が案内係のループタイを指さして尋ねると、男性は映画の話をやめて答えた。
「これですか?さあ、ただの三角形じゃないでしょうかね。どうしましょう、親族の方がいらっしゃったときのための面会室もご案内いたしましょうか」
 面会室と呼ばれた部屋の、一輪挿しの花が置かれたテーブルで、わたしと弟とは入所申込書類の保証人欄にそれぞれ名前を記入し、口座振替依頼書には弟が銀行名と支店名、口座番号を記入し、銀行印を押した。保証金と1ヶ月分の施設利用料が印字された振込用紙を受け取ってから視線をあげると、案内係の後ろの白い壁にカレンダーがかけられているのがみえた。カレンダーの上半分は日本のどこかの城と満開の桜とが写っている写真で、下半分が日付になっていた。案内係の男性はテーブルの上の書類に顔を近づけて記入漏れがないか確認しており、男性のつむじ越しにカレンダーを眺めていて、何かがおかしいと感じたけれど、理由はわからないまま施設を出た。


 引っ越し先のアパートへは、荷物が届くよりも先に入って、ガスの開通作業が終わるとその日は何もすることがなくなった。すでに祖父は施設へ入所したあとだった。あの工場でどのような日々を過ごすのか、見学したからもちろん想像しようと思えば簡単に、詳細に、想像できるのかもしれないけれど、考えたくはなかった。自宅から工場まで、祖父は弟が運転する車の後部座席で黙って景色を眺めていた。わたしも助手席に黙って座っていて、弟はときおりバックミラー越しに祖父の姿を確認しながら唇をきつく閉じていた。ただ、途中一度だけ、車窓から遠くの山に太陽の塔が、万博記念公園にあるそれではなく、かつて日本モンキーパークだった敷地内に残された若い太陽の塔が小さくみえると、唇が開かれて、息が漏れた。幼い頃よく祖父と一緒にモンキーパークへ行き、一日中猿をみていた頃のことを思い出していたのかもしれない。モンキーパークにいるすべての猿の名前を覚えていたけれど、いまではもうほとんど忘れてしまったといつか話していた弟の、幼い頃みつめていた猿が何類だったのかわからなくなっても隣に祖父がいて楽しかった記憶は消えずに残っていたみたいで、でもそれは猿がいて、隣に祖父がいて、どんな天気で、どんな匂いがして、風景が思い出されるというより楽しかった気持ちだけがふっと蘇ってきて、風景の方ははっきりと思いだせないもどかしさにさみしくなるように、猿の檻の前に立つ祖父と弟とを後ろからみていたはずのわたしには思えた。
 施設に到着すると、見学のときの案内係と作業服を着た年配の女性が駐車場で待っていた。女性はわたしたちに挨拶すると、はね上げてあった虹色に光るゴーグルを溶接工のように顔におろしてすぐに表情がみえなくなり、そのまま祖父の手を引いて施設の中へと歩きだした。祖父は一度もこちらを振り返らなかった。
 空っぽのアパートに鍵をかけて外へでて、駅のほうへ歩いて最初に目についた派手な色づかいの看板の安そうな居酒屋に入って生ビールとお刺身と何品か頼んで食事をすませてから、誰かに電話をかけようかと思ったけれどやめて、ただ外でひとりでビールを飲んでいるなんて何年ぶりだろうと思った。


 そういえばこの部屋に電話はなさそうだし、どうやって外と連絡をとればいいのだろう。そもそも連絡する先が残されているのかどうかも、わからないけれど。ノートから顔をあげて窓をみると自分の顔が映っていた。外は暗くなり、いつの間にか部屋に灯りがついていた。
 アパートの最初の夜も、カーテンがまだなくて、同じように窓に自分の姿が映っていた。居酒屋からの帰りにレンタルビデオ店に立ち寄って、DVDを借りて安いDVDプレーヤーを買って、唯一持ち込んだ薄い布団にくるまって小さなディスプレイで『麦秋』をみた。同じ時間に祖父が小津安二郎のどの作品をみているのか、それとももう眠っているのかわからなかったけれど、施設で小津安二郎の映画をみるのはどんな気分か想像しようとして、その後でもう一度、猿の檻の前に立って弟に何か語りかけているまだ若い祖父と、まだ幼い弟とを後ろでみていたときの光景を思い出してみようとしたけれど、記憶には色がなく、ふたりの表情も猿の種類も思い出せなかった。
 カーテンのない窓から朝日が差し込んで来てはじめていつのまにか眠っていたことに気がついた。目をあけると眩しくてなにもみえず、自分がどこにいるのかすぐにはわからなかった。そこが引っ越してきたアパートの部屋だとすぐにわかったところで、どうしてアパートの部屋にいるのか、どうしてこれ以上夫と暮らせないと思うようになったのかはわからなかったと思う。
 はっきりとした原因というかきっかけのようなもの、たとえば夫が誰か他の女性と会っているところをみかけたとか、事業に失敗して自己破産することになったとか、暴力をふるわれたとか、そんなことは何もなかった、少なくともわたしの知る限りでは。きっと思い出すこともできないような、毎日のささいな出来事の積み重ねで、一緒に生活していることがきわめて不自然なことのように思えるようになって、いったん思いはじめるとその考えは薄れたり消えたりすることはなく、一滴ずつコップに落ちた水滴が唇をしめらせる程度の量になり、やがて喉を潤せるほどの水位になって、ついには溢れだすように、この生活から抜け出すのに一刻の猶予もないと、朝のランニングのときのように心臓の鼓動がはやくなるのがわかって、いや、わかったなんて冷静な状況ではなくて、まるで何者かに握り拳で心臓を強く叩かれたみたいになって、それを合図にわたしは空気を求めて水面を目指すほ乳類のように大きく息を吸い込みたくなって、そのまま玄関を出たのだった。