「ポリチンパン」3


 妻が家を出ていったことがきっかけではない、そう男は供述している。妻が出ていってしまったせいでやけになって事件を起こすなんて馬鹿げている、発端は結婚するよりも前にある、社会人になった瞬間からこうなる運命だったのかもしれない、そう銀行員の男は供述している。
 供述によると、入行してすぐに行員専用カードローンを申し込んだ、というよりも申し込まされたという。三百万円まで自由に利用できる当座貸越枠を手に入れると、最初は(金利がもったいない、給料の範囲で生活していればカードローンなんて使う必要がない)と考え、借り入れすることを恐れさえしていた新入行員たちは、しばらくするとそれぞれが思い思いの、いわゆる遊興費とよばれる資金使途のためにATMにローンカードを挿入し、暗証番号と金額を入力し紙幣を手にすると、まるで打ち出の小槌でも手に入れたかのように気が大きくなって、二度目の借り入れまで時間はかからなかった、皆がそうとは言い切れないが、少なくとも自分はそうだったし、仲間もそうだったはずだと男は供述している。
 男の場合は、それまで一度も訪れたことのなかった風俗店へ先輩に連れられて足を踏み入れたことがきっかけだった。ドアを開くと黒いスーツを着たボーイが立っていて、まず入場料を支払った。ビロードのカーテンをくぐると薄暗い室内の黒いソファに男たちが並んで座っていた。男たちの前には、薄暗い室内とガラス一枚で隔てられたショーケースのような空間があった。
「あれはマジックミラーになっていて、もうすぐいい女がずらっと並ぶぞ」
 先輩に耳打ちされながらソファの末席に腰を下ろすと、ボーイがお飲物はいかがですかと尋ねてきた。慣れた様子で「ウーロン茶」と答える先輩に倣い、同じくウーロン茶を注文すると、今度は「御爪を拝見」とボーイが言い、言われると同時に先輩は両手の平を開き、ネイルサロンにでも来たかのようにボーイに爪の長さを点検された。真似をして両手の平を開いてみせたものの、緊張からか指先が震えたと、男は供述している。
 ウーロン茶が運ばれてくるとまもなく、薄暗い室内がさらに暗くなり、マジックミラーの向こう側が明るく照らされ、ボディコンシャスな衣装を着た女性が六名、皆背筋をのばして胸を張る姿勢で立ち並んだ。天井で小さなミラーボールが回転し、何も隠してはいない丈の短いスカートの下、むき出しの太股やはだけた胸元の上を光りが通り過ぎていった。女性の胸元につけられた名札をみて、ソファに座った男たちが順番に指名し、サービスのコースと時間を決めそれに応じた金額を支払って順番にビロードのカーテンの向こうへと消えていった。ちょうど先輩と男との前に六名の先客がいたため、ふたりの指名する順番は次の案内となった。
(次の回は、いまみた六名よりもいい女が来ますように)
 そう願いながら唇を湿らせる程度にウーロン茶を飲んだ。幸い、先輩とは好みのタイプが分かれていたようで、次のマジックミラータイムには納得のいく女性を指名することができ、先にボーイに呼ばれた先輩は「終わったら、さっきの喫茶店で報告会だ」と男に告げたため、先輩を待たせる訳にはいかないと男は考えたが、いざ個室に案内され、初めてのサービスを受けると(こんなの初めてだ! )とほんとうに初めて経験する快感に震え、こんなの初めて!と口にする代わりに「延長!延長お願いします! 」と叫んでいた。
 延長を終え、指定された喫茶店へ行くと灰皿を吸い殻で一杯にした先輩が待ち受けており、それをみたとき(報告会か反省会か知らないが、そんなものは無用だ、今後はひとりで来よう、ぜひともまた来よう)と考えたと男は供述している。
 供述によると男はそれから週末になると同じ店に行くようになり、やがてマジックミラー越しに他の男たちと競いあって指名する以外に、あらかじめ電話で指名予約をすることもできることを知ると、平日の仕事中にインターネットで女性たちの出勤情報を調べ、口元だけにボカシが入っていたり、顔全体にボカシが入っていたりするプロフィール写真を睨みながら誰を予約しようか考えるようになったという。給料日前の週末には、翌週まで行くのを我慢することができず、ローンカードでお金を引き出して通うようになった。最初のうちは給料が入るとすぐに返済し、また給料日前になると借り入れをしてまた返済して、と繰り返していたが、行くのをやめることはできなかった。
 待合室の照明が落とされてマジックミラー越しに女性が現れる瞬間までの緊張感と、個室でサービスを受けているときの(気持ちいい)ということ以外、たとえば仕事中に起きた嫌なことなど、何も考えられなくなる瞬間がどうしても忘れられず、射精した瞬間から次の射精が待ち遠しくて仕方がなかった。指名するといっても、同じ女性を何度も指名することはほとんどなく、常に初めての女性と対面する緊張感を求めた。
(俺は性の冒険者なのだ)
 風俗店に通う自身をそう捉えた男は、ヘルスだけでなく、ソープランドという場所へも是非行ってみたい、でなければ冒険者とは言えないと考え、まずはソープランド街の歴史から調べはじめたという。
 はじまりは明治二十一年に開かれた遊郭であり、そこから何度か移転を繰り返している。太平洋戦争時に軍需工場を建設するため最初の強制移転があり、戦後に当時の国鉄南口の紡績工場跡地に一斉移転した。業者は六十軒あり、一軒あたりの面積は六十三坪にきっちりとわけられ、場所取りはくじ引きで決められた。ロココ様式のような豪華な建物、白馬に乗った騎士の像が二階テラスに立っていたり、入り口横の噴水に水浴びをする女神像が座っていたり、エレベーターが昇降する部分がステンドグラスで装飾されていたりするそれらが六十三坪の土地に建ち並んでいる様子の写真が映し出されたタブレット端末のディスプレイから視線をあげると、まったく同じ風景が駅のホームに降り立った男の視界に入ってきたが、異国の異空間にみえるその一角は遠目にみてもすべてがくすんだ色合いで、古びていた。
 近づくと、どの店も塗装が剥げたり錆が浮いていたりと、条例で改築が制限されているという情報は本当だと納得できる風景がみられた。手を加えることを禁じられ、崩壊するのを待っている遺跡のような場所に、黒いスーツに黒い蝶ネクタイをした男たちが立ち、口ぐちに声をかけてきたが、歴史を調べるのと平行して調べていた店舗別の在籍姫ランキング上位者の中から既に自分の好みの女性を選び出しており、呼びかけには応じることなく、迷うことなくひとつの店へとたどり着いた。
 手すりに装飾の施された螺旋階段を登りドアを開けると受付があり、そこで入場料を支払うとビロードのカーテンの向こうにある待合室へと通された。ここまでの手順はマジックミラーの店と変わらなかった。待合室にはソファが四脚、すべて正面の壁を向くように配置されており、マジックミラーはなかった。腰掛けると想像以上にソファは深く沈んだと男は供述している。
 尻が沈み込んで驚いているところで、ふと誰かの視線を感じた。案内したボーイは既に写真で指名した女の名を告げに部屋の外へでており、ちょうどその時待合室に他の客もいなかった。壁をみるとモナリザの複製画が架けられており、(そうか、モナリザにみられていた訳か)と考えたが妙な感じがなくならず、よくみると少し右に体を傾けて横目でこちらをみつめているはずのモナリザの黒目が真ん中にあり、まっすぐにこちらをみていた。みつめあったまま絵に近づいていくと、モナリザがまばたきをし、驚いて立ち止まると瞼を閉じるようにスッと絵の具で描かれた目線が下りてきた。
(さては、事前にどんな客が来ているか嬢が確認するための覗き窓だな)
 マジックミラーの店舗の待合室にも、壁の不自然な位置に鏡があり、おそらくマジックミラー越しに登場する前に断りたい客を見定めるための、逆向きのマジックミラーなのだろうと男は推測したことがあった。さらに付け加えるなら、マジックミラーだと言われている部分は単なるガラスで、向こう側からこちら側はすべてみえているのではないかとも推測した。何故なら店舗にとって本物のマジックミラーを費用をかけてわざわざ用意する必要がないからだ。顔や胸元、お尻から足にかけて品定めするかのようにじろじろとみつめてくる男たちの前に立ち、すべてみえているにもかかわらずまるで鏡に映った自分自身をみているかのようでその実どこもみていないような不自然な視線を宙に浮かべて立っている女たち、自分はみつめかえされることなく特権的に無遠慮な視線を注ぐことができる立場にいると思いこんでいる男たちと、マジックミラーが実はマジックミラーではないことを見抜いた自分とは違う、そう考えていたこともあったが、今思えば待合室に並んでいた男たち全員がそう考えていたのかもしれない。
 偽マジックミラー越しの場合、視線を合わさないようにしつつも既に対面しているが、モナリザ越しの場合、直接みつめ合ってはいるものの姿はみえない。どちらかといえば写真で指名する店舗のほうが一般的で、マジックミラー形式が特殊だったが、初めて経験したのがマジックミラーだったので、緊張し、興奮した。
 準備ができた旨を伝えに来たボーイにうながされ、待合室をでると二階へと続く階段の踊り場にドレス姿の女が立っていた。写真と異なる女が現れた場合に落胆せぬよう、あらかじめ覚悟をしていたが、覚悟していたよりずっと写真に映った姿に近い女だったため、驚いた。写真をみて指名しておきながら、別人が現れると予想して、写真に映っていた女が実際に現れて驚くことになるとは、(俺はツイている)と考え、階段を上りながら既に(また来よう)と思ったと男は供述している。女に手をとられてさらに階段を上ると、絨毯が敷かれた廊下に出た。並んだドアのうちのひとつを開けると、手前半分にベッドとテーブルが置かれ、奥のもう半分は浴槽とタイルの床になっていた。お風呂に入って寝るだけのその部屋に入った瞬間、建物の内部についても改装や改築が禁じられているのだということが理解できた。巨大な業務用エアコンはおそらくもう壊れていて、家庭用の小さなエアコンが別に取り付けられていた。手前の床は毛足の長いカーペットで隠されているものの、風呂場のタイルはところどころ割れて剥がれてコンクリートがむき出しになっていた。風呂の配管もビニールテープで補修されているところが目立ち、浴槽だけが取り替えられたようで黄金色に輝いていた。シャツのボタンをひとつひとつはずされながら、この改装されずに同じ状態のまま朽ちるのを待っている部屋で、これまでに何人もの男女が交わってきたのかと、俺もその歴史に加わる訳かと、男は考えたという。かつて家制度というものがあった頃、同じ家屋の同じ寝室で、壁に架けられた先祖の写真が見守る中、代々男女が交わってきたであろうことが思い浮かび、子孫繁栄につながるそうした行為があった一方で、このソープランドで代々行われる秘密の行為からは子孫は生まれず、戸籍に書き加えられることなどなにもなく、ただ繰り返される営み――そう考えながら尻の割れ目に対応する箇所が大きくえぐれた椅子に座って泡で股間を洗われ、崩れて消えるのをじっと待っている部屋でその後何人もの女と寝た、それが結婚する前の話であり、同じ金額の融資枠を持った数名の同期たちが結婚する時期になると、性の冒険者といえども人並みに交際をしていた女性がおり、それは営業で訪問する取引先の企業の受付を担当していた女性だったのだが、何度目かに同期の結婚式に出席した後で(ご祝儀を払ってばかりでは、つまらない)と考え、ある日渉外鞄を持って営業中に彼女が座っている受付を訪れ、なに食わぬ顔をして名刺の裏に「結婚してください」とボールペンで記入し、深々と頭を下げながら手交した。
 結婚を機に、冒険は終わりだと考え、ふたりでアパートに住みはじめてからは風俗店へ行くことはなくなり、仕事を終えるとまっすぐに帰宅する日々が続いた。風俗店に通うのをやめてみると、自分には何も趣味がなかったことに気がついたと男はいう。山登りや釣り、写真やフットサル、切手収集や将棋、油絵やダーツ、そうした趣味らしいものに何も興味がなく、従って趣味の時間がとれないことに苛立つようなこともなかった。ただ、また風俗店へ行きたいという気持ちだけは消えず、とろ火で煮込むように、と何故か突然趣味でもない料理に例えて、再び冒険に出る日を待ち望む気持ちは煮詰まっていったと供述している。
 数年後に中古マンションを購入した。これも同期たちが住宅を購入しだした頃、真似をするように家を買おうかと考えた結果だった。自分の住宅ローンの稟議書を自分で書き、口座に融資金が振り込まれると同時に業者へ資金を振り込み所有権の移転が完了し、これで仕事が辞められなくなったと辞める予定もなかったにもかかわらず、考えた。その重みに耐えかねて風俗通いを再開したという訳ではないが、住宅ローンを借りてしまうと、住宅資金のために貯金しなくてはという気持ちが薄れ、子どもがいないため学費を準備する必要もないだろうという言い訳が浮かび、ついうっかり以前みていた風俗店のホームページを閲覧してしまった。本日の出勤状況をみた途端、心臓をやわらかい手で揉みしだかれたかのように動悸がして呼吸が荒くなり、自らの意志に反して震える指が勝手に動いてマジックミラーの店に電話をかけてしまった。それからは自制がまったくきかなくなり、独身の頃と同じ頻度で通い続け、小遣いだけでは足りなくなり、貯金ができないどころか生活費にまで手をつけて、足らない分はローンカードで引き出して充てるようになった。当然カードローンの元金返済はできず、毎月ほぼ利息だけを支払うばかりで、まもなくカードローンの利用残高は極度額まで達してしまった。しかしもう後には戻れなかった。
(俺がローンを完済できるのは、性欲が完全に消え失せたときだ。それまでは、銀行員としての信用力によって資金調達し続けるしかない)
 いつ果てるかはわからないが、性欲にも限りがあるのだから、それまでは借金をしてでも欲望を満たすことが豊かな人生である、そう自らの行為を肯定したものの、借り入れ可能額にも限度があり、企業の決算書に置き換えるなら正常運転資金以上の借り入れ、年商以上の借り入れをおこなっている、査定でいうなら破綻懸念先にもなりかねない状況に陥っていた。利益の出ている企業であれば、節税のために交際費を使うところだが、借入金の返済によってキャッシュフローが捻出できなければそんな余裕はない。
 ある日、男は業況が良好なある企業を訪問し、営業担当者と話していた。契約を取るにはやはり接待は必要で、相手が男なら飲みに連れていくより何よりまず女を抱かせるのが一番、飲んでからむらむらしてどうするどうするなんて言っているようじゃ駄目で、あらかじめ予約しておいた店に連れていって抱かせちゃう、飲みにいくならその後飲みにいけばいい、もうこれで契約は決まり、と接待の必勝法を語るのを聞き、(取引先の接待交際費で風俗に行く、その手があったか)とひらめいたという。ある程度資金繰りに余裕のある中小企業で、経理担当も兼ねているような社長と仲良くなり、低レートでの融資をちらつかせて接待を受ければ、これ以上自ら借金をしなくてもすむ。
 融資取引一覧表を出力すると、そこから正常先から要注意先までの企業を抽出し、それぞれの企業の社長の顔を思い浮かべ、親交が図れている先かどうか、好色そうな顔かどうかを基準に見込先をピックアップしてリスト化すると、「融資取引推進見込先リスト」という偽の表題をつけてファイルに綴りこみ、営業活動へと出発した。リストアップされた企業は規模、業種を問わず様々だった。一般貨物自動車運送業、調味料製造業、医薬品製造業、情報処理サービス業、一般機械器具卸売業、葬儀用機器製造業――這わせた指を止めると、助手席にファイルを放り投げ、ギアをドライブに入れた。