「ポリチンパン」5


 いままさに肖像画を描かれている最中であるかのようにかしこまった顔つきで並ぶふたりの姿をみるのは、七五三のとき以来だろうか。全国の神社で撮影されたあらゆる七五三経験者たちの写真や、写真撮影のときの状況についてすべてを記録するのが当ネットワークだったはずだが、ふたりの姿以外は消え去ってしまったようだ。そもそもすべてを記録するということ自体が嘘だったのではないかとの疑念を抱くほど、なんの跡形もなく。
 遠い昔、疫病や栄養失調による乳幼児の死亡率が高かった頃、あの世とこの世との境に位置するものとされ、人別帳にも記載されずに留め置かれる存在だった七歳までの子どもたちは、いまでは生まれた瞬間から戸籍ネットワークに記載され、記録されるようになったはずだった。しかしながら、何歳になっても誰もがあの世とこの世との境に位置するものであることにかわりはないという観点に立てば、戸籍ネットワークに登録されないことを選ぶ自由もあってしかるべきではないか、いまとなればそうも思えてくる。
 ふたりが並ぶと弟のほうが頭ひとつ分程度身長が高い。メダル台の前に立ったふたりは、ピラミッド状に積み上げられたメダルの山からそれぞれ一枚ずつ取ると前へと進み、機械の下部にある投入口へと静かにそれを入れた。すると機械上部のディスプレイのライトが点滅し、ポリ、チン、パン、ポリ、チン、パン、とライトの表示が握り拳を表す状態と、人差し指と中指との二本だけを立てたものを表す状態と、指を全部開いたものを表す状態との三つの形態にめまぐるしく変わりはじめ、その前に立った者はディスプレイの下に並んだ三つのボタンのうち、任意のひとつを押さなければならない。ポリはチンに勝ち、チンはパンに勝ち、パンはポリに勝つ。
 「アイコデ、アイコデ、アイコデ、アイコデ」
 彼も彼女もあいこが続き、機械がアイコデショと言い終わるより前に次のボタンを選択する。彼らの後ろには二列に別れて参列者たちが並んでいるため、のんびりボタンを押してはいられない。ポリを押したところ、ディスプレイはパンを表示し、負けてしまった彼は、機械の前で一礼し、棺の前へと進み、遺体の顔をみてから自分の席へと戻る。彼女はといえば、勝負に勝ち、機械は「フィーバー」という声とともにディスプレイの中心を囲むように配置されたルーレットの上を光が回転し、光が5のマスで止まると、メダル投入口の横にある口から五枚のメダルが排出され、それを取り出すと再び投入口へと入れ、ディスプレイがもう一度ポリ、チン、パンとめまぐるしく点滅する前でボタンを押す作業を繰り返す。参列者たちが順番にメダル台から機械の前へと進み、棺をのぞいて席に戻る間、正面の大型液晶ディスプレイには、当ネットワークがネットワークになる以前の姿が映し出されている。
 太平洋戦争末期に手旗信号の練習をしている、幼さの残る姿が徐々にフェードアウトし、戦後の混乱期をやりすごして電電公社に入社したばかりの痩せた姿がフェードインしてくる。同様に、クロスフェード・ディゾルブの手法で過去の姿が映し出されていくのを、参列者たちが座って眺めている。
 新婚旅行へ出かけた伊豆半島の海辺で、妻とふたりで立っている姿、真っ白いシャツを着て、肩に手をまわし、太陽の光を受けて眩しそうな、若いまなざしをディスプレイの前に並んだ人々に向けており、向けられた側の人々はというと、今はもう存在しない人物がかつてその風景の中に実在したということが、同じ時代の同じ場所に居合わせなかったせいでにわかには信じ難いといった表情でまなざしを投げ返している。決して交わるはずのなかったふたつのまなざしが葬儀場において出会うとき、棺を載せる場所であると同時に火葬装置にもなっている台座が作動しはじめ、煙を出さずに遺体を瞬時に骨だけにしてしまう。ディスプレイの映像は生まれたばかりの孫を抱いて玄関先に立っている姿へと変わり、日に焼けた畳の上でふたりの孫とトランプの神経衰弱をしているところも映し出された。
「ほんとうに神経が衰弱してくるからもうだめだ」
何度も何度も神経衰弱をくりかえしやろうとせがまれ、そう断ったことがあったのが思い出される。そして福井へ旅行に行ったときの姿、伊豆半島の海辺にいた若いふたりはもうそこにはおらず、東尋坊に立つ年老いたふたりが年老いたまなざしをこちら側へと投げかけてくるのをみつめかえしつつ、ポリチンパンを終えて最前列に座った彼と彼女とを、ネットワークとしてこの世界のすべてを記録することが不可能だとしても、せめてふたりのことだけはいつまでも見守り記録し続けていきたいが、光は徐々に絞られていき、もうわずかな時間も残されてはいないようだ。