「ポリチンパン」6


 施設から電話があったのは、ユービック・ガールとして試供品の小さな缶をパルコ前で配っている最中だった。ホットパンツのお尻のポケットに入れてあった携帯電話が震えた気がして、左手に持った袋から缶を取り出して通りすがりの人に手渡したあとの右手をポケットにあてると確かに着信がわかったけれど、すぐに出ることはできずに袋の中へと手を伸ばして次の缶を握りしめていた。
 一連の動作をいちいち意識してぎこちなくなってしまうのは、人通りの多い中でビキニ、つまり裸みたいな格好で立っていれば当然といえば当然だったけれど、一番の原因は最近ユービック・ガールの仕事をしているとき、違う曜日の違う場所でも、いつも同じ男が試供品を受け取りに来ている気がして不気味だったからだと思う。ほぼ同時期にアパートの窓辺に干してあった下着が盗まれたのも気持ちが悪かった。もちろん同じ男の仕業かどうかはわからないし、下着泥棒については男かどうかもわからない。
 身体を触られる訳ではないし、声をかけられるわけでもないけれど、遠くからじっとみつめられていて、それに気づいてみかえすと目をそらし、そらしたからといって立ち去ることはなく、動こうとはしない。その男のほうばかりをみている訳にはいかないから、通りかかる人たちに声をかけて再び試供品を配りはじめると、いつの間にか男は通行人として目の前に現れて、視線を合わせずに缶を受け取って去っていく。
 一瞬すれ違っただけの人と、まったく別の場所でもう一度すれ違ったとき、瞬時に同じ人だと気づくことが果たしてできるのだろうか。
 特徴的な髪型、特徴的な顔、特徴的な服装、いつも同じ服装、そういった要素が重なったときに気づくことは考えられる、というよりも経験がある。でもそれは同じ時間帯に利用する駅でいつもすれ違うひとだったりして、場所や時間も関係してくるのかもしれない。
 その男の場合は、場所や時間はもちろんばらばらだったけれど、現れるのが決まってユービック・ガールの仕事中という点で印象に残っていたのだと思う。
 特徴的な髪型かといえば違うし、特徴的な顔でもなかった。服装は、いつもポロシャツを着ていた。ポロシャツの色は都度違っていて、胸の刺繍だけが同じだった。試供品の缶を手渡すとき、一瞬顔をみて(また同じ男だ)と思うと怖くなって視線を落としてしまい、ちょうど胸の刺繍に目がいくので毎回刺繍をみた。馬に乗ってスティックをふりあげている人物のシルエットの刺繍。また同じ男だ、胸元をみる、同じ馬の刺繍、今日も同じ男が来た、胸元をみる、また同じ馬の刺繍、でも回数を重ねる毎に刺繍の馬は左胸から少しずつ右胸へと移動しているような気がした。パラパラ漫画の要領でシャツを重ねてめくっていったら馬が駆けていくようにみえたかもしれない。
 電話が鳴ったその日、ポロシャツの男はまだ現れていなかった。袋の中の缶を配り終えて、休日の買い物客で混雑する歩道を離れてハザードランプを点滅させて路肩に停車しているユービック・カーへと戻った。改造された軽トラックの荷台に設置された巨大なユービックの缶の形をした冷蔵庫から試供品の缶を出して袋に補充するときにお尻のポケットから携帯電話を出してみると、ディスプレイに不在着信の文字と介護施設の名前とが表示されていた。
 緊急時以外連絡することはありませんと聞かされていたから、とっさに命にかかわることだと思って、仕事中だったけれどその場で電話をかけなおした。1コール、2コール、3コールと待っても誰も出ず、4コール目を聞いたとき、さっきまで試供品を配っていた歩道から、信号が青にかわってスクランブル交差点へとひとが一斉に動き出すなかひとりだけその場に立ったままのポロシャツを着た男がユービック・カーの前にいるわたしの様子をうかがっているのがみえて、脇の下を冷たい汗が流れた。携帯電話を握りしめたまま、片手に持っていた袋を投げ捨てると、赤に変わって信号待ちをする人混みのなかからわたしをみていた男がこちらに向かって一歩踏み出すのがわかって、同時にわたしは駆けだした。走りながら振り返ると男がこちらをみつめたまま、人混みを押し分けながらまっすぐに向かってくるのがみえた。遠くからみつめているか、通行人として試供品をもらいにくるだけだったこれまでとは明らかに様子が違っていた。それはわたしが急にいつもと違う行動を取ったせいのように思えた。思いつめたような顔つきをみておそろしくなって、車道に飛び出す勢いで大きく手を挙げると、ウィンカーを出して停車したタクシーのドアが開くやいなや飛び乗って、窓越しに駆け寄ってくる男の姿がみえたので行き先を告げる前に急いでこの場を離れるようにお願いすると、わたしの格好に驚きながらも運転手は素早くドアを閉めて発車した。ちょうど後続車が途切れ、タクシーは流れに乗ってパルコ前の交差点を走り抜け、取り残された男は立ち止まり、手のひらを眉毛のところへ日差しを避ける帽子のつばのようにあててこちらを眺めていた。遠ざかっていくと、その姿は敬礼しているようにもみえた。



 面会室に入ると、弟の背中があった。机に伏せて居眠りしているような体勢で、肩甲骨がうきあがってできたシャツの凹凸に窓から差し込んだ夕日が影を作っていた。声をかけると、振り返って驚いた表情をした。その顔をみて、自分がビキニみたいな格好だったのを思いだし、羽織るものが何もなかったのでとりあえず腕組みをした。
 遺体用冷蔵庫での一時預かりの手続きを済ませたところだと言われて、そう、としか答えられずに弟の向かいの椅子に座った。向かい合って座りながらお互いの顔もみずに黙ったまま、どれくらいそうしていたのだろう、気がつけば外は暗くなって、テーブルの上のペンダントライトがひとりでに灯って、こんなライト前からあったかなと思いながらみあげると弟も同じようにみあげていて、その後目があって、帰ろうかと言うと、そうだね、と答えた。
 外に出ると、タクシーの運転手が車の傍らに立ってタバコを吸っていた。その姿をみた瞬間、待たせていたことをすっかり忘れていたことに気がついた。はっとして立ち止まったわたしをみた瞬間、運転手の顔に(長い間待たされていたことを責めよう)という気持ちと(もしかしたら運賃を払わずに逃げてしまったかもしれないとも思ったが戻ってきてくれてほっとした)という気持ちとが混じった表情が浮かんだ気がして、責めようという気持ちが勝ってしまう前に精算して謝ってしまおうと、弟に頼んで支払いを済ませてもらい、深くお辞儀したままタクシーを見送った。ユービック・カーの前から逃げるようにタクシーに飛び乗ったので、コインロッカーに入れた財布や着替えを忘れてしまっていた。
 白い扉の中心にジャンケン・チョキのマークが描かれた、小さな営業車の助手席に乗り、荷物を入れたコインロッカーまで送ってもらうことにした。弟が運転する車の助手席に座るのは、祖父を施設に送っていった日以来だと思った。でもそのときよりも車はずっと狭く、車内には揚げ物の油や海苔やよくわからない食べ物の臭いが漂っていた。鼻を動かしているわたしをみて、弟は「ほとんどの食事を車の中で済ませるから、コンビニの駐車場でカレーパンを食べたりだとか、ごめん」と独り言のように言って、ラジオのスイッチを押した。ラジオからはジャズが流れていたけれど、わたしはジャズに興味がなかったからただジャズとしかわからなかった。弟も特に興味はないらしく、ジャズについて何も語らなかった。ふたりとも黙ったまま、流れていく景色を眺めていて、過ぎ去っていくガソリンスタンドの看板やファミリーレストランの看板や家電量販店の看板が照明で光っているのをみても、カタカナで書かれた店名が頭の中で意味を結ばずに、どこか知らない外国の道を走っているみたいだった。
 パルコ前の交差点に着いて車を降り、そのまま別れようと手を挙げると、今日は早くあがるから晩ご飯でも一緒にどうかと言われ、コインロッカーから荷物を出してビキニみたいな格好の上からTシャツを着ると再び助手席に乗り込んで、営業所の近くの喫茶店で降りてコーヒーを飲みながら弟が戻ってくるのを待った。



 混雑する店内に入って見回しているとちょうど二人組が席を立ってレジに向かい、油で汚れた丸いテーブルの上を店員が片づける前に席に着くと、水の入ったグラスを二つ運んできた女性は片手で水の乗ったお盆を持ったままもう片方の手に持った布巾で素早く真っ赤な天板の上を拭きあげ、グラスを並べた。黙って厨房へと戻ろうとするのを呼び止めて、弟はメニューもみずに台湾ラーメンと青菜炒め、唐揚げと炒飯とを注文した。
 窓際の席で、窓ガラスに映ったわたしのTシャツにはアルファベットでどこかの国名がプリントされていた。なんのこだわりもなく、割引になっていたのを手に取ったものだった。世界地図のどこにあるかも思い出せなかった。車の中でずっと黙ったままだった弟はグラスの水をひといきに飲み干すと、目を閉じて長く息を吐き、吐き終わると目を開いて、静かに話しはじめた。
 この店によく一緒に来ていたKという後輩がいて、変なやつだとはずっと思っていたけれど、少し前に退職願と表に書かれた封筒に入った置き手紙を残して次の日から会社に来なくなって、その手紙の内容というのが、最近風呂上がりに鏡の前に立つと自分とは違う誰かが立っているように思えてきた、はじめはその理由がわからなかったが、以前よりも胸毛が濃くなったせいだと気づいた、なぜはじめから気づかなかったかといえば、鏡が小さいせいで胸元が映っていなかったし、服を脱いでシャワーを浴びて出るまでずっと目を閉じているからで、ただ鏡に映る顔の、首から下あたりから暗い影がかかってきているようで別人のように思えたようだと、要領を得ない、まわりくどい文章で書かれていたらしく、我慢して読み進めていくと、とにかく体毛が濃くなったということは、体毛が身体の弱っている部分を守ろうとしている働きに違いなく、心臓の近くの胸毛が濃くなった、しかも尋常ではない濃さになったということは、心臓がとても悪いからだと思う、思うというよりも、病院へ行き検査を受けるまでもなく確信できる。残り短い人生を悔いなく楽しむため、いますぐ退職したいと締めくくられていた、という話しだったけれど、それを聞いていてもやはり頭の中で意味を結ばずに、祖父のことをなにも話さないのはおかしいという気がして、死んじゃったねとだけ言うと、そうだね、いつもの調子で頼んだらこんなに残っちゃったと弟は答えた。
 真っ赤なテーブルの上には、台湾ラーメンと青菜炒め、唐揚げと炒飯とがどれも半分以上、湯気も立てなくなりじっとりと油が固まりはじめた状態で残されていた。