急な坂の頂上のあたりに、三つのオレンジ色の点が並んでいる。みかんが三個置いてあるにしては、遠近法が狂っている。近づいてくるにつれて、オレンジ色のツナギを着た三人の女だとわかった。女たちは真剣な顔つきで黙々と坂を下っていく。
坂を下りた女たちが歩いていく河川敷で釣りをしているのは、尾崎という男。30歳のテント生活者だ。テント生活を始める前は百科事典の訪問販売や高額な健康食品を売るセミナーの講師、海の家等で働いていたが、貯めたお金を持ってラス・ヴェガスのカジノへ繰り出して一文無しになり腹巻に隠してあった帰りの航空券で日本に帰国してからは河川敷にテントを張り、昼は釣り、夜は月明かりでひとり詰め将棋にふけっていた。
尾崎が釣りをしているのを横目に眺めながら向かった買出しから戻ると、団地の公園の定位置に女たちは基地を作り始めた。ビニールシートを敷き、手洗い場で空のペットボトルに水を汲み、絵の具を並べる棚を木陰に据え、休憩用のハンモックを吊るしてから買ってきたばかりの巨大なキャンバスに荒々しく筆を押しつける。彼女たちは美術部。鳴子の美術部と言えばあたいらのことさ!と名乗りを上げることで知られている。
同日同時刻、JRと私鉄の線路をまたぐ橋の上を渡る国籍不詳の男が鳴子の団地方面へ歩いていた。引きずるスーツケースについた数々の傷から世界各国を旅してきたことが窺える。しばらく絵を描くと飽きてきてしまい、お菓子を食べたりハンモックで寝たり、今日からおそろいのツナギを美術部のユニフォームにしようと決めたのに実際着てみるとゴワゴワして着心地が悪いので明日からいつもの服にしたい、いやせっかくネーム入りのツナギを新調したのだから着続けるべき、と女たちが言い争っている間にスーツケースの男は彼女たちの姿をみかけ、近づいてみるとキャンバスには世界中のどこでもみたことのない絵が描かれようとしていた。
まるで、生まれたばかりの頃からシャガールの絵画の柄がプリントされた浴槽で産湯につかり、ゴッホの絵画の柄がプリントされたタオルでふき取られ、ピカソの絵画の柄が容器にプリントされたベビーオイルを塗りこまれてきた者にしか描けない、どうしてもこの絵を手に入れたい、お金はいくらでも用意するのでぜひとも譲ってほしいといった内容のことをニュージーランド英語でまくしたてる男が差し出した名刺には「DALI」と書かれていた。彼の名はダリ、5代目ダリであった。初代ダリはくるりと巻かれた口ひげで知られるが、2代目は顎ひげがくるりと巻かれていた。3代目は鼻の下の溝の部分にだけひげが生えていた。4代目はサンタクロースのように顔中がひげで覆われており、よくみると一本一本のひげがくるりと巻かれていた。そして5代目の彼のひげは稲妻のような形をしていた。4代目ダリがベトナムで恋に落ちた末に落とされた愛の稲妻、それが5代目――ダリの勢いに押されて絵を譲ることを承諾した彼女たちだったが、完成が近づくにつれて5代目ダリと名乗る怪しい男に絵を渡すことが嫌になり、唐草模様の風呂敷に包んだキャンバスを抱えて逃げ出した。
逃亡の末たどり着いたいつもの河川敷で寝転ぶ彼女たちを見下ろして尾崎が通りかかる。珍しく大漁だった彼をみつめる女たちは視線だけで尾崎と交渉を成立させ、魚と絵とを交換した。お腹が空いていたのだ。魚を焼くためにおこした炎から立ち上る煙は、これからは女たちの世紀が始まるといったようなことは告げておらず、いまここで魚をおいしく焼いていますよというメッセージを対岸へ伝える狼煙。