夕方次長に書類を出して、珍しく早めに仕事が終わったと思いひといきついていたら、支店長が隣にやってきて飯食いに行くかと言われ、まわりをみるとみんな下を向いて仕事をしていて、すぐに帰れそうなのはひとりだけだったのでしまった!と思ったときにはもう遅く、お先に失礼しますと言いながら支店長とふたりでうなぎ料理店に行くことになった。うなぎが苦手で、中学を卒業し、高校を卒業し、大学を卒業し、社会人になるまでずっと食べてこなかったけれど、上司がいかにもご馳走を食わせてやるぞという顔つきで誘ってくるのを断るわけにもいかないので、わくわくした顔つきでテーブルについた。ひつまぶしの上をふたつと、馬刺しひとつ、ノンアルコールビールひとつを注文した。馬刺しがおいしかった。ひつまぶしも、香ばしく焼いてあるのでそれなりにおいしく食べることができたけれど、最後のほうはだんだんうなぎのにおいで気持ちが悪くなり、「三杯目はお茶漬けで」と張り紙がしてあったのでお茶漬けで流し込んで食事を終わろうとしたら、香ばしかったうなぎが水分を含み、うなぎ本来の生々しさを取り戻しつつあるような感じがして余計に気持ち悪くなった。
以前、H川さんから「支店長が娘の婿にしたいとか言ってたぞ」と聞き、冗談か本気かわからなかったので、向かいあって食事している間、ずっと義理の親子になるための布石を打たれるのではと身をかたくしていた。自分は子供たちに深い愛情を注いできたので、家族みんなが仲良しで、みんなでお風呂に入ったりするという話が出たときは、きみもいっしょにお風呂に入ろうということか!とさらに身をかたくした。そのあとで急に教師のような語り口になり、絶対にやってはいけないのは、ひとを傷つけることだ、精神的にも肉体的にも、ひとを傷つけることだけはするな、では逆にやるべきこと、するべきことは何か、わかるか?と尋ねられ、家族に愛情を注いできたという話の流れから考えて、「ひとを……愛することですか」と息苦しくなるのをこらえて答えたら、「いや違う。ひとを喜ばせることだ」と教えられた。
自分よりも立場が上の人物から質問を投げかけられた場合、正しい答えを求められている場合と、間違った答えをさせておいて「そう思うだろう、だが違うのだ」と気持ちよく話を続けるきっかけを欲している場合とがある。その程度のことなら素人でもわかるけれど、プロはさらに多くの選択肢の中から瞬時に、状況に応じた答えを選び出すことができるということが、『会話ジャンクション』に書かれている。爆発的なセールスを記録したこの新書の著者が、出版の三年後に青森県の山中で発見された事件は記憶にあたらしい。著者の遺体にはベンツのタイヤ痕があったことから、メルセデス事件と呼ばれた。青森県警の八事正太郎刑事は、著者の遺体は実は発見されておらず、衣類だけを山中に残して港から漁船に乗り込みロシアに向かったのではないかという説を唱え、捜査を混乱させたとして職をおわれている。八事刑事がこのような妄説にとらわれた背景には、山口県生まれ法政大学卒業後、40種類の職業を経験したという超能力者・高塚光の存在がある。高塚は1994年12月に超能力者廃業を宣言しており、この宣言以降、日本国内で主だった超能力関連の動きはみられていない。