山手線で上野駅に向かう途中、佐々木は居眠りをしてしまい、目覚めると東京駅の医務室にいた。ひどい頭痛がしてベッドから起き上がることができなかった。数時間後、ようやく立ち上がり外へ出たとき、持っていたはずの紙袋がなくなっていることに気づいた。
佐々木はその日、上野の国立科学博物館の地下23階にある日本秘密研究所へ向かっていたのだった。研究所への入り口は秘密になっていて、展示されているヒグマの口に、ICチップが埋め込まれた木彫りのマスを差し込むと床が地下23階へと急降下する仕組みになっている。佐々木に残されたのは、内ポケットに入れてあったそのマスだけだった。あとの荷物はすべて何者かに奪われてしまったらしい。佐々木は研究所のボスのことを思った。研究所のボスは20年前に肉体を失っており、特殊な溶液に入れられた脳髄だけが存在している。脳髄ケースからは、赤・青・緑・黄緑の四色のコードがのびていて、電光掲示板につながっている。四色の様々な組み合わせにより、喜怒哀楽だけでなく、(気持ち悪いけれど、かわいい)などの複雑な心情も表現できるのだった。最後にボスと面談した際、どこか様子がおかしかった。脳髄が溶液の中で震えているようにみえた。(これまでの人生がすべて夢で、ふと目覚めると全く違う自分になっていたらいいのに)そう電光掲示板に表示されていた。佐々木はそろそろこの研究所を抜ける時期ではないかと感じた。失った紙袋に入っていた研究成果を納めてからその意思をボスに伝えようと考えていた。
「最後のお土産、なくなっちゃったけど、まあいいか」
若々しい口調で佐々木はつぶやいた。額には40年にわたって刻み込まれてきた皺がうごめいていたが、一本一本の皺に躍動感があふれた美しいうごめき方だった。


NHKと大きく書かれた紙袋はその頃、東海道新幹線の車内、NRハウスの開発担当・吉岡の膝の上にあった。居眠りしかけた佐々木にクロロホルムを嗅がせ、紙袋を奪ったのはこの吉岡であった。
(こんなに大切な書類を、紙袋に入れて持ち運ぶなんて……)
吉岡は眠り込む佐々木の姿をみながら思った。
NRハウスは、他のハウスメーカーに大きく遅れをとっており、画期的な新商品を必要としていた。紙袋の中をのぞきみると設計図がみえた。それは押しボタンの設計図だった。吉岡はこのボタンを利用して、画期的な住宅設備を作り出そうと考えていた。
子どもがボタンをみるととにかく押したがる性質を利用して、押される度に発電するボタン装置が設計された。これを住宅内のしかるべき所に設置し、ソーラーパネルと併用すれば太陽の光の力と、子どもがボタンを押す力によって電気代が驚くほど節約できるようになる。まさにニューロマンティックハウスの名にふさわしい次世代の設備。これで社内での重要な役職を得ることができる、そう確信した吉岡は昼間からためらいなく缶ビールをあけた。


子どもがボタンを何度も押したくなるように、押す度にいろいろな音が鳴るように設定する。ガチョウの鳴き声や、興が乗ってきた黒人歌手の雄叫びのような音や、若手演歌歌手がビブラートの練習をしているような音など。ランダムに鳴るので楽しくて押すのをやめられない。玄関、トイレ、キッチン、階段、ベランダ、いたるところにボタンをとりつける。子どもたちがボタンを押すたびに、家電が動き出す。
パネルのボタンを押しながら、展示が光ったり、解説ビデオが流れ出したり、展示人間が動き出したりするのには目もくれず、次のボタンを目指して駆け回っていく子どもたちのエネルギーを電力にできないものか……博物館を訪れた際の佐々木のひらめきはハウスメーカーの開発部によって実用化されることになった。


世界の博物館や科学館で、展示人間たちが誰もいないところで同じ動作を繰りかえし続けている。弓矢をひき続ける者、ろくろをまわし続ける者、船をこぎ続ける者、田畑を耕し続ける者、手裏剣を投げ続ける者。自分の意思とは無関係に、それぞれの持ち場から動くことなく、誰からもみられることなく続けられる孤独な作業――人は何年、何ヶ月、何週間、何日、何時間、何分、何秒、そんな生活に耐えられるだろうか。