あたらしいキャラクターのプレゼンテーション「ほうれい犬」

2011年5月、サンリオが立命館大学との産学連携であたらしいキャラクターのキャンペーンを開始したと報じられました。
キャラクターが販売促進に与える影響は、どの程度のものでしょうか。人のこころを掴むキャラクターはまるで優秀なセールスマンのよう。並のセールスマンより仕事がとれる?!なんて煽り文句が飛び出すほど、マーケティングとの同時戦略によってキャラクターが力を発揮し、売り上げの増加が期待できます。しかしながら、市況低迷による利幅の縮小を思えば、費用対効果を考えなるべくコストを抑えたプロモーションにより最大の利益を生み出したいところです。そこで今回、まだ現在は無名ですが、未来の一流キャラクター、「ほうれい犬」についてご紹介します。
               


通信事業社のコマーシャルに登場する白い犬のキャラクターにはもうそろそろ飽きてきた、という声があがるなか、彼、ほうれいは押しつけがましいところがなく、どなたにも受け入れられやすい性格を持っており、白い犬をうわまわる人気を獲得する可能性を秘めています。
また、完全にオリジナルな存在であるため、(のまねこ)のような訴訟リスクは一切ありません。
押しつけがましくない、受け入れられやすいとはいえ、いわゆる(ゆるキャラ)とは一線を画します。みた目こそ、(ご当地ゆるキャラ大集合)といったようなポスターに登場しても不思議ではない顔つきですが、中学卒業後、アルバイトで生計を立てながら大検を受け、公立大学に入学した経歴を持つ努力家です。
発酵食品やお菓子など、商品のイメージキャラクターとしての活動はもちろん、ほうれい自身の魅力を活かしてグッズ展開をすることも可能です。うちわ、下敷き、カンペンケース、ピアニカを入れる袋、デコレーショントラックの装飾など、ご要望に応じてそれぞれのグッズに適した顔つきができます。
先ほど例にあげた通信事業社だけでなく、自動車メーカーなどの企業のセールスプロモーションはもちろん、町おこし、村おこしのお手伝いもいたします。実際の出身地は静岡県であり、好きな食べ物はうなぎの骨せんべいですが、ご要望のあった自治体の名産にあわせて出身、好物は偽ります。趣味は五百円玉貯金で、たとえばあなたの身近なところに何かを頼まれるたびに茶目っけのある表情で「はい、○○円」と手のひらを差し出してくる人物はいないでしょうか。ほうれいはそのような調子で、本気で金銭を要求します。金額は必ず五百円です。五十万円貯まる貯金箱がいっぱいになったら投資信託を買ってさらに資産運用するのが目標だそうです。
大学入学と同時に静岡県から愛知県へと移り住み、大学卒業後も静岡県へは戻らず、しばらくは公園で幼児と仲良くなってはそのまま自宅までついていき、あがりこんでそのまましばらくその家の世話になるという暮らしを続けていました。はじめてほうれいと出会ったのも、やはり公園でした。仕事中にすこし木陰で休憩しようと公園の脇に営業車をとめて、缶コーヒーを飲もうとしたとき、ベンチに腰かけていたほうれいと目があいました。視線をそらしてからもう一度ベンチのほうをみると、ほうれいは少しこちらに近づいていました。気のせいかと思い、手帳を開いてそのあとのスケジュールを確認し、もう一度ベンチのほうをみると今度は確実にほうれいが近づいてきていて、仕方がないので窓を開け、助手席に置いてあった菓子パンを差し出しました。それがきっかけで営業車に乗り込んできたほうれいはそのまま家までついてきて、あがりこんで共同生活がはじまりました。その頃はまだ独身の一人暮らしだったので、家族に気兼ねすることもなく、昼間の間ほうれいは自由に冷蔵庫の中のものを食べたりお風呂にはいったりしていたのだろうと思います。夜にはふたりでレンタルビデオをみたり、オセロをしたり発泡酒を飲んだり、楽しく過ごしていました。あるとき帰宅すると、テーブルの上に小さな紙切れが置いてありました。それは新聞の切り抜きで、記事が中途半端なところで切りぬかれていたので不思議に思い裏返すと、タレント養成所の新人募集広告でした。ほうれいは、ふたりで挑戦してみようと誘ってきましたが、生活をしていくためには仕事を辞めるわけにもいかず、そもそも人前に出るのは嫌いなほうでそれまでに一度もタレントになりたいなどとは考えたこともなかったので、即座に断ってしまいました。その場では残念そうなそぶりをみせなかったほうれいでしたが、それから数日後には家を出ていってしまいました。だからこうしてあたらしいキャラクターとして彼を推薦しながらも、実際のところは彼がいまどこでなにをしているのかわかりません。もしかしたら既に、あたらしい名前で、出身地を偽り、どこかの町のキャラクターとして生計を立てているのかもしれません。もしもそうなら、いつかテレビコマーシャルで彼の姿をみかける日がくることを願いたい、なんて、そんな気持ちにはなれなくて、結婚して家庭を持ったいまでもときどき、ふたりで過ごした日々を思い出してもう一度あんなふうに暮らせたらと思うことのほうが、多いかもしれません。

ユッケショック後の、焼き肉店店主へのインタビュー

3月11日以降、震災の影響を受けた企業に対する融資枠が県知事の指示により唐突に創設され――新聞の朝刊の地域欄に突然その概要が発表されてはじめてその制度のことを知った――間接的な影響でも融資が可能とのことだったので、その焼き肉店へも(世間の自粛ムードの影響による売り上げの減少)という理由で融資を利用してはどうかと提案をし、「借りておこうかな、どうしようかな、検討します」と迷っていたところへ、ユッケの食中毒事件が起き、その影響もあったようで、あらたに借入をするよりも、現状の返済額を減らしてほしいと店主から融資条件変更の申し出を受けるに至った。

一度融資の条件変更をしてしまうと、建前上どうかは別として、返済能力に問題ありとみなされ、今後新規の融資による資金調達が難しくなってしまうという現実があるため、もう少し現状のままの金額で返済を続けてみましょうということで話は終わった。
売り上げを伸ばすための工夫はいろいろしているんですがね、と店主は語った。
たとえばお客さまに住所と氏名を記入してもらうと、会員証を発行して、ドリンク代はサービスするとか、その情報を利用してダイレクトメールを発送するとか、誕生月にはサービスメニューを用意するとか……あと、持ち帰り用のキムチを用意して少しでも客単価を上げるようにがんばってはいるんですけれどね。
ところで、ユッケの問題ですがと話をふると、もともと調理方法に問題はないけれど、現在は自粛をしている。なかには安全性をアピールして自粛せずに提供を続けている焼き肉店もあるが、安全なのは当たり前のことであって、この状況であえて自粛しない店舗があるせいで自分の店がまるで安全性に不安があるから自粛しているかのように誤解を受けるのは納得がいかないとのことであった。

焼き肉店に行く理由のひとつに、家庭では食べることができない生のお肉を食べたい、ということがあるのに、残念ですねと言うと、店主も、こちらとしても是非ともおいしい新鮮なお肉を生で提供してお客さまに喜んでもらいたいという気持ちがあるのに残念ですと嘆いたあとで、ここだけの話、常連さんには、もちろん人を選んで、ですけれど、ユッケを出していますがね・・・・・・と囁いた。

人を選んでユッケを出すというのは、どういうことだろうか。そのお客さんがどの程度の常連さんか、常連さんの機嫌を損ねて他の焼き肉店へと流れてしまっては困る、ということももちろん問題だけれど、一番のポイントは、(もしもこのユッケで万が一のことが起きたとしても、訴えてこなさそうなひと)かどうかという点ではないだろうか。ということは、いちげんさんでも(訴えなさそうなひと)であることをアピールできれば、焼き肉店でユッケを食べることができるということになる。

では、(訴えなさそうなひと)とはどのようなひとか。
まずは人相、一番最初に目に入るのは顔である。何も考えていないときにも怒っているような顔をしているひとはまず無理だろう。穏やかな気持ちでいるときでさえも、普段よく怒っているために眉間に深い皺が刻まれていて不気味な笑顔になってしまっているようなひとは、焦げそうなくらい真っ黒に焼いた肉しか食べさせてもらえそうにない。ここはやはり、眉毛は八の字、困ったような情けない、常に申し訳なさそうな顔をしていく必要がある。目も、申し訳なさそうな涙目。充血しているといかにも怒って訴えてきそうなのでそうならないためにも目薬をさしてから出かけたい。つり目だときつい印象なので、そういう場合はセロテープで目じりを下げる。次に鼻、立派な鼻をしているひと、たとえば鷲鼻のひとはいかにも意志が強そうにみえるので要注意。ユッケを食べるためだけに整形するわけにはいかないので、立派な人は鼻の骨を折っていますという風に大きなガーゼをあてていくしかない。鼻の骨を折ってまでユッケを食べたいというくらいだから、きっと食中毒になっても本望だと思ってくれそう、と思わせたい。また、小鼻のかわいらしい、あまり主張しない鼻だと、ユッケだけでなくレバ刺しもお好きでしょうとすすめてもらえそうだ。口元についても注意が必要で、口角をあげてにこやかに入店しなければならない。ほうれい線があると、なおよい。

服装にも気をつけたい。ドクロのモチーフがプリントされたものは厳禁、(地獄)だとか、(神なんて信じない)、(性交)といったようなことが英語で書かれたTシャツも避けるべきで、ユッケは紳士の食物です、という気持ちを態度で示すために襟つきのシャツにスラックスが妥当である。淡いピンク色のカーディガンを羽織るとより訴えなさそうだと思われる。アーガイル柄はユッケを盛りつけるための皿を表しているという説もあるため、効果的。

それよりも、単純に店主の好みのタイプのお客さんならどんなメニューでも簡単に出してもらえるということもまた、あるだろう。
ある日父親と母親とともに来店した若く美しい女性に、店主は心を奪われた。まるで過去の自分と未来の自分からの羨望のまなざしを身体に受け、あたりが輝いてみえるようだった。いらっしゃいませ、と言おうとして、目があった瞬間、何も言えなくなってしまった。アルバイトの女の子に、会員証の勧誘をするよう指示をして、自分は厨房から彼女をみつめることしかできない。このとき店主は、ユッケだろうが、刺身だろうが、頼まれればすぐに出そうと既に心を決めている。彼女の年はいくつだろうか。妻も子どももいる、子どもはもうすぐ中学校に進学する、そんな自分と彼女とは十歳以上は離れているようにみえた。こんな娘の父親になれたら、そんな風には考えられなかった。彼女といまこうして出会うまでの十年は存在しなかったのだとしか考えられなかった。ユッケを注文する彼女に、いま自粛していますと答えようとするアルバイトを制止し、あなただけに、ご用意しますとかすれた声で答えた店主は、放心状態で皿を運んだ。どのように調理したのか、まったく記憶になかった。
食事を終え、店をでるとき彼女は「オブリガード」と挨拶した。ブラジル人だろうか、それともブラジル人と日本人とのハーフだろうか、どちらにしても、彼女が帰ってしまう、まるで地球の裏側まで去ってしまうように寂しい、店主はそう思った。数日後、ユッケが原因かどうかはわからないが、彼女が体調を崩したという知らせを受けた。店主は(販売促進以外の目的では使用しません)とうたった個人情報を利用して、彼女がひとりで暮らす家を訪れた。看病を口実に、店主はそこに居着いてしまい、その後どうしたかというと、彼女とともに客船に乗りブラジルへと渡ってしまった。いまでは、遠く離れた故郷を懐かしみながら、集落の仲間と楽器を演奏し、サンバを踊るのを楽しみに暮らしているという。


部屋に置かれているのがソファか、座椅子かでその部屋に住む人がお金持ちか貧乏かが決まると考えていたことがあったと思うし、いまでもその考えはかすかに残っている。いま住んでいる部屋にソファはなく、座椅子がふたつあるが、だからといって貧乏だと言いたいわけでもない。ただ、今でも残っているソファと座椅子に対する考えを、いつ、はじめて持ったのかが気になった。しかしそのはじめて考えた瞬間のことは思い出せない。


小学生の頃、何年生の頃だったかは思い出せないが、よく遊びに行っていた空き地があった。そこは古い民家の門のような塀と扉だけが書き割りのようにたっていて、その扉の向こう側にはなにもない、舗装されていない土の地面がむき出しの、何坪だったかは思い出せないしそもそも何坪かを気にしたこともなかった広場で、たまにゲートボール大会が開かれていたが、普段はほとんど誰も来ない場所だった。放課後、当時気に入っていたウェストポーチの中に当時好んで舐めていた抹茶飴をひとつかみ入れてその広場へと出かけた。広場の隅には、塀の陰になり植物が生えている場所があって、その隅にひそかに穴を掘り、どんどん掘り進めて広場の地下に秘密基地を作りたいと考えていた。その秘密基地には、ソファを置きたかったことは覚えているから、このときには既にソファと座椅子に対する考えがあったはずだ。
一緒に穴を掘ってもらっていた仲間のうち、ふたりは歯科医の息子で、後に中学受験をして私立の中高一貫校へと入学した。彼らはともに分譲マンションに住んでいて、ともにソファのある部屋で生活していた。自宅は崩壊寸前の借家で部屋にはこたつと座椅子しかなかったから、ソファはお金持ちで座椅子は貧乏だと考えるようになったのだろう。中学校を卒業するときに、母方の祖父がみかねて自分の家を増築し、よびよせてくれてからやっと安心して生活できるようになった。


その祖父から貰ったもののうちのひとつに、マイクロカセットのテープレコーダーがあった。そのテープレコーダーを手に入れてすぐに、弟とふたりで押し入れの中に入り、レコーダーの録音ボタンを押してから「忍者密会」と低い声でささやき、ささやいたものの次につなげる言葉をなにも考えていなかったからすぐに停止ボタンを押し、巻き戻して「忍者密会」という声を再生して遊んでいたことを思い出す。そのときの押し入れは祖父の家の押し入れだったはずだが、高校生になって「忍者密会」とささやいて遊んでいたとは考えにくいから、増築している途中に帰省して遊んでいたのかもしれない。それでも中学生で「忍者密会」もおかしいのではと思えるので、小学生の頃だったかもしれないとも思え、そうなると場所がほんとうに祖父の家の押し入れだったかどうかもあやしくなってくる。


もちろん、広場の隅に掘っていた穴は秘密基地を作るまでには至らず、膝のあたりまでの深さで終わった。その広場では穴を掘っていただけではなく、ボール遊びをしていたこともあった。野球でもなく、サッカーでもなく、どんなルールの遊びだったかは思い出せない。ボールの大きさも片手で握ることのできるものだったか、両手で抱えるものだったか思い出せない。そのボールが広場の隣の家の庭に入ってしまい、壁をよじのぼって忍びこんだことは覚えている。庭先に飛び降りると、見慣れない機械装置があり、それをみた瞬間(赤外線が出てくる!)と思い身構えた。赤外線というものがどのようなものなのかもよく知らなかったが、とにかくレーダーのようなもので監視されていてすぐに通報されると思い、ボールを拾ったあとで慌てて最寄りの警察署まで自転車で走り、我々子どもがボールを拾いに入っただけですと言いに行った記憶がある。
またあるときは、広場の入口付近で中年男性が胸をおさえてうずくまっていたこともあった。男性がうずくまっていたことについては、絶対に記憶ちがいではない自信があるが、大丈夫ですかと声をかけたあと、救急車を呼んだのか、また最寄りの警察署まで走って行ったのか、それともなにもせずに帰ったのかがまったく思い出せない。だからその男性がどうなったのかもわからなくて、そのことについて考えると不安な気持ちになる。


先日、娘のお食い初めをしたときに、母親が古い絵本を三冊持ってきた。そのうちの一冊、「やさいのおなか」という絵本を取り出して、母親が娘にみせはじめたとき、その野菜の断面図がシルエットになっていて次のページに何の野菜か答えが描かれている絵本に見覚えがあることに気づいて、ぞっとした。母親に言われるまでもなく、それは自分が幼い頃母親から同じように「なんの野菜かな」とみせられていた絵本だった。こんなに記憶があいまいで、思い出せないことばかりで、もう一度繰り返せと言われれば途方に暮れてしまうように感じられる四半世紀をすこしすぎた生涯を、この人ははっきりと覚えていて、まるで昨日と同じことを繰り返すかのように孫に向かって同じ絵本を読み聞かせているのかと思ったとたんに、自分のこれまでの人生、経験が拳ほどの大きさにぎゅっと握りこまれてしまいそうな思いがしてぞっとした。それに、自分では思い出すことができない自分の姿の変遷を、自分以外の人間にすべて把握されていると思うと怖い気持ちがした。また、これからの人生が、絵本を二度開く間のようにあっという間に過ぎ去ってしまうのではないかとおそろしくなったとも言える。だから少しでも、繰り返し思いだそうと努力することで、そうした恐怖から逃れたい。逃げ切ることは不可能でも、できるだけ努力はしたいと思った。

『UMA-SHIKA』第4号に参加しています、ぜひ読んでください、お願いします。

言葉にできない気持ちや、言い表せない感情なんてない、なぜなら気持ちや感情は言葉から成り立っているものだから。これまでそう思ってきたし、いまでもそう思っているけれど、うまれてからもうすぐ三ヵ月になる娘をみていると、まだ言葉を覚えていないのに笑ったり怒ったり、いろいろな顔をしていて、それはみつめているこちら側が勝手に自分たちの気持ちや感情にあてはめているだけかもしれないけれど、言葉の前に気持ちや感情があるのかもしれないとも思えてくる。

小説を読まなければ小説は書けない、そう信じてきたし、いまでもそう信じているけれど、読んだ小説の一節一節だけが小説を書かせてくるわけではないのかもしれないと思うようにもなった。今回掲載して頂いた「新世界の銀行員たち」という小説のことを考え始めたのは、社会人になったばかりの頃だった。それから何年も過ぎてようやくこうしてはじまりと終わりをもったひとつの小説になった。その間ずっと、日々の生活を送りながらも頭の片隅に、あるいは中央に、心の中に、話す言葉の端々やなにげない仕草の中にもうひとつの、あるいは複数の生活を同時に抱え込み、送っていたと言ってもうそにはならない。
あなたが毎朝乗る電車でみかけるスーツ姿のあのひとや、夕方立ち寄るコンビニエンスストアの駐車場に車をとめてパンを食べているあのひとも、同時にもうひとつの、あるいは複数の世界を生きているかもしれない。そのひとたちが読んだ小説だけでなく、昨日みたテレビや、家族との会話、ドアを開けると飛び去っていった鳥の声、隣家から聞こえてきた曲名を知らないピアノのメロディー、何年も前に訪れた旅先での出来事、実家で開いた古いアルバムに貼られた古い写真、そのほかたくさんの断片からそれらの世界は成り立っているだろう。
たとえば駅のホームに並んだひとたちが、それぞれのもうひとつの、あるいは複数の世界を頭上に、あるいは肩の上に浮かべ、あるいは口にくわえ、それとも小脇にかかえ、または抱えきれないのでキャリーバックの上にのせている姿がもしも目にみえたなら、すごい光景だと思いませんか!でも残念なことにそんな光景は目にみえないので、かわりに『UMA-SHIKA』第4号を読んでください、ぜひお願いします。

UMA-SHIKA(公式)

UMA-SHIKA』第4号目次


《小説》キリストノミコト ココロ社id:kokorosha


《往復書簡》権威のない世界文学評議会 紺野正武(id:Geheimagent) 石間異路(id:idiotape2


《小説》絶滅と初恋 ヨグ原ヨグ太郎(id:yoghurt


《小説》ブラックボックス ムラシット(id:murashit


《小説》走らずの馬 宮本彩子(id:ayakomiyamoto


《小説》新しい太陽の都 紺野正武(id:Geheimagent


《小説》理由 フミコフミオ(id:Delete_All


《小説》新世界の銀行員たち 森島武士(id:healthy-boy


《エッセイ》ポルチーニ茸を食卓に 吉田鯖(id:yoshidasaba


《小説》孤児たちの支え 保ふ山丙歩(id:hey11pop


《おじいさんの話》おじいさんの話 あざけり先生(id:azakeri


表紙デザイン:ヨネヤマヤヤコ(id:yoneyacco

毎朝快速列車を降りると改札を出てバスセンターへと歩いていく。月曜から金曜まで横道にそれることなく階段を上ると、まず高速バスの乗り場があり、大きな荷物を持ち明るい色づかいの服装の人たちが並んでいる。佐世保、香川、富山、京都、東京と行き先を横目でみながら、職場行きの乗り場へと向かわずにそのまま佐世保へ、香川へ、富山へ、京都へ、東京へ行ってしまいたくなるけれど、毎朝我慢して体の向きを変えずに歩ききる。
しかしながら、誰もが突然の、期限を定めない旅に出たいという気持ちを抑えられるわけではない。旅立つ前からふいに旅情が溢れだしてしまい、通勤途中で行方不明になる者は後を絶たない。中には突然旅に出たとみせかけて、周到に準備をしている者もいる。高速バスのチケットを買っておくのもひとつの方法だが、よりさりげなく、より突然に旅立つ方法がある。金銭的に余裕のある者にしか許されない方法だが、JRの自動券売機に定期券を入れ、機械のボタンを秘密の順番と一定のリズムで押したあとで行き先に応じた数枚の紙幣を入れると、デジタルの画面表示が反転し、特別なチャージができる。あとは駅の通路に貼られている、旅行へと人びとを誘う美しい風景のポスター、たとえば「週末は山梨にいます」といったコピーが書かれたそれに、定期券をピタリとつければ写真へと吸い込まれていく。それは、ローションで満たされたプールに飛び込んでいくような感触らしい。月給のうち何割かをチャージするだけで、本人確認など必要ない。旅行用の大きな鞄を持参するのは大げさなので、通勤用の薄い鞄に荷物を忍ばせる。折りたたみ傘、折りたたんだ下着、折りたたんだタオル、入り込むポスターの写真が海峡などの場合には、転送される場所が海の上かもしれないので折りたたんだ浮き輪をしまっておくこともある。
ポスターの風景は現実に存在するものであるにもかかわらず、秘密のチャージで飛び込んだ先は存在するかどうかわからない。おのおのがおのおのの風景へと飛び込んでいき、同じ風景をふたり以上で共有することがない。通常通り切符を買って電車でそこへ行こうと思っても、似た風景の場所へは行けても同じ場所ではない。


毎年夏になると、休暇をもらって旅行へ出かけてきた。旅先は福井や金沢が多く、みてきた風景のほとんどはお前と切り離せない。前日に職場の飲み会から抜け出せず、ほとんど寝ないまま車で東海北陸自動車道を走って海水浴に行き、お前とほかの友人とで船に揺られて無人島へと渡ったことがあった。水島という島だった。またあるときは金沢に住む知人を驚かせようと、あらかじめ連絡せずに突然訪ねて行ったこともあった。金沢に住む知人が運転する車の前に突然飛び出し、運転する彼の驚いた顔をみたとき、お前も大笑いしていたはずだ。福井の海岸沿いを走りながら食事できるところを探し回ったあげく入った回転寿司店ではほとんど寿司がまわってこず、注文してもゲソしかないと言われたこともあった。
今後福井や金沢を訪れても、お前と遊び回ったときほど楽しむことはできないだろう。あるときからお前は電話にまったく出なくなり、連絡を取ることができなくなった。お前の身になにが起きたのかわからず心配するも、どうすることもできず、連絡もせずに突然お前を訪ねたとき、お前は無表情で、皮膚の上はいままでのお前と同じだがまったく別人が入り込んでしまったようでおそろしかった。会話もできないままお前は立ち去った。あれからお前はどうしているのかとときどき思い出す。あのときの海岸や金沢駅のロータリーや回転寿司店のことにも思いを巡らすけれど、どの風景もほんとうにあったものだという確信が持てない。お前だけでなく、あれから何人かの友人を失った。彼らもまた気づかぬ間に別のひとになっていたのかもしれない。よくよく考えてみると、お前と遊び回ったという記憶も誰か別のひとのもののような気もしてくるし、そもそも生まれてから死ぬまで、夜眠りについて朝目覚めるまで、同じひとでいつづけることのほうがおそろしいことのように思えてくる。でももう逃げられない、本人確認されてしまった、市役所から死ぬまで同じひとだと決めつけられてしまった、賃貸契約を結んでしまった、口座から毎月家賃が引き落とされることになってしまった、だから秘密のチャージもしないし、ポスターの向こうへ飛び込むこともしない。お前はもしかしてまったく違うやり方で旅に出てしまったのか?もし戻ってくる気になったら電話してほしい。そのために電話番号はいまも変えていないから。

『UMA−SHIKA』第3号に参加しています

第2号に続き、今回も参加させていただいております。5月23日(日)、大田区産業プラザPiOにて開催される文学フリマにて販売されます。今回掲載していただいたのは、この「リオ・デ・ジャネイロの祭り」にメモとして書いてきたアイデアをまとめた「新世界の銀行員」という小説です。書くのが遅すぎて半分しか書けず申し訳ありませんが、どうぞよろしくおねがいします。
以下目次です。

《小説》鴨くん、いままで悟りをありがとう ヨグ原ヨグ太郎(id:yoghurt

《単著ブロガーに会いに行こう》ココロ社 ロング・インタビュー

《小説》伊勢神宮を(今すぐ)連れてきて!(id:kokorosha

《座談会》娘とオヤジと映画館と(id:tsumiyamaid:doyid:pontenna

《小説》新世界の銀行員(前篇) 森島武士(id:healthy-boy

《エッセイ》寺の三男坊 吉田鯖(id:yoshidasaba

《小説》都市伝説〇八六七 ムラシット(id:murashit

《小説》にせもの フミコフミオ(id:Delete_All

《小説》ゴーレムニア・アデプタ 紺野正武(id:Geheimagent

《小説》王国 真魚八重子id:anutpanna

表紙デザイン ヨネヤマヤヤコ(id:yoneyacco

 UMA-SHIKA第3号詳細はこちら→http://d.hatena.ne.jp/uma_shika/20100505/p1

ある晴れた気持のよい気候の午後、突然あなたの家のポストに小包が投げ込まれた。階段をのぼってくる足音の荒々しさ、投げ込み様からは普通の郵便局員による行為とは思えない。小包の消印はリオ・デ・ジャネイロ、封を開くと古いノートの束が入っていた。ノートの紙が繊維に戻ってしまう程古くはないそのノートは、いつの時代のものか判断できない。ごくシンプルな表紙のものもあれば、狸のイラストが描かれているものもあった。狸のイラストからは吹き出しが出ており、(じっと我慢の子ダス)と話していた。そのイラストの画調からも、台詞まわしからも、時代を推測することはできなかった。表紙を開くと日本語でさまざまな文章が書き込まれていた。何気なく一冊目のノートを手にとったあなたは、窓の外がうす暗くなっても部屋の灯りをつけるのも忘れて読みふけりはじめた。

煙草を吸う理由として、間をもたせるために吸うと答える者が少なからずいることは周知の事実である。彼らの間をもたせてやれば、喫煙人口は減少すると考えられる。例えば、あまり親しくない者どうしが集まってテーブルを囲み飲酒するときなど。こんなとき、煙草を吸うのではなく、肩にかわいい動物をのせておけば間が持つ。煙草を吸うよりも長く間をもたせることもできる。日本たばこ協会は、煙草の売上減少に備えて、シマリスやインコ、リスザルなどの飼育に力を入れるべきではないか

あるノートにはこう記されていた。あなたはなるほど一理あると頷いた。その他のノートには、日本の信用金庫に勤務する男性の日常がながながとつづられていた。誰に向けて書かれた日記なのだろうか――あなたはふと思い出した、何年も前に、誰にも知られずに書き上げた短い小説を、たったひとり想定した読者に向けて送りつけたことを。緊張した面持ちであなたは何日も待ち続けた。一般的な日本人が生涯に郵便受けを確認するであろう回数の総合計を、数日間で超えてしまった。返事はこなかった。古い住所を頼りに送りつけたため、宛先に届いていないかもしれないとも考えたが、届いたが読まれなかった、読まれたが読まなかったことにされたとも考えられた。やがて、そもそもなぜ読者として想定したのかも忘れてしまい、あなたは小説を書かなくなった。
目の前が真っ暗になり、さすがに夜になったことに気づいたあなたは、灯りをともすと同時に鉛筆を握りしめ、ノートの余白に短い文章を書き込みはじめた。書かれていた文章を読み、余白に書き込み、書き込んだものと書かれていたものとを読み、と繰り返すうちに、あなたは書きやめることができなくなった。いつまでも読み続け、いつまでも書き続けたい、書き終わってしまうことはかなしく、書き続けることによってのみ生活が、人生が豊かになるに違いないとしか思えなくなった。

そのような経緯でかどうかはわからないが、全てのページが真っ黒に塗りつぶされた数冊のノートが彼の郵便受けに届いたが、彼は行列に並んでおいしいものを食べることが病的に好きな性格だったため、ノートのことは気にもとめず、明日はどんな行列にならんでやろうかといったことだけを考え続けたのだった。